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程 知節(てい ちせつ)太宗 李世民を支えた勇猛な将軍

とう 5.4 隋唐 臣下・人々

程 知節(てい ちせつ)は唐の将軍。

程 咬金(てい こうきん)ともいいます。

隋の武将でしたが、やがて唐に投降。

李世民の配下になりました。皇子たちの争いでは李世民を皇帝にするために働き。李世民の即位後も唐の領土拡大に貢献しました。

唐の建国に功績があり太宗・李世民に仕えた臣下を描いた「唐の凌煙閣二十四功臣」のひとりにあげられます。

史実のはどんな人物だったのか紹介します。

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程 知節の史実

いつの時代の人?

生年:589年
没年:665年
享年:77

姓 :程(てい)
名称:知節(ちせつ)
幼名:咬金(こうきん)
字:義貞(ぎてい)

本貫:済州東阿県

国: 隋→魏→唐
地位:驃騎大將軍
称号:盧國襄公

父:程興

正室:孫氏、崔氏

子供:程処嗣(処黙)、程処亮,程処政、程処弼、程処寸、程処立、程俊

 

日本では飛鳥時代になります。

 

おいたち

隋の時代。
開皇9年(589年)。濟州東阿で生まれました。

父は瀛州刺史の程婁。

隋の大業6年(610年)。盗賊や山賊が増えたので、程知節は人々を集めて数百人の軍を組織。村を守ることにしました。

このころ隋の各地では反乱が起こり。隋の武将・李密も反乱を起こしていました。

程知節は李密の軍に合流しました。李密は軍の中から特に勇敢な8千人を選び四驃騎にわけ、左右に分けて守らせました。李密はこの精鋭部隊を「内軍」と名付けました。李密は「この8千は百万の兵に匹敵する」と豪語していました。

程知節は李密から頼りにされていたのでこの驃騎のひとつを任されました。

皇泰元年(618年)。このころ李淵が「唐」を建国。

同じ年。李密の軍は王世充と戦いました。程知節は北邙山で内騎営を担当しました。李密の部下・単雄信は偃師で外騎営を担当していました。王世充は単雄信を攻撃。李密は程知節と裴行儼(裴仁基の子)を援軍として向かわせました。このとき裴行儼が矢に当たって落馬。程知節は彼を助けて出しました。

ところが李密軍は敗北。程知節は王世充に捕まりました。王世充は程知節を将軍として迎えました。

619年。王世充は隋の恭帝を廃して自ら皇帝を名乗り「鄭」を建国。王世充の統治は過酷で民が次々と逃げ出しました。程知節は王世充が許せず、秦叔宝、呉黒闥、牛進たち10人の仲間とともに唐に投降しました。

程知節は秦王府の左三統軍に配属になりました。秦王 李世民に従って宋金剛、竇建德、王世充と戦いました。常に戦いで先陣をつとめました。その功績で宿国公の爵位を与えられました。

武徳7年(624年)太子 李建成と秦王 李世民が争いでは 程知節は康州刺史に左遷されました。でも程知節は「大王(李世民)の腕が切り落とされたら体はいつまで保ちますか?知節は死んでも離れませんよ」と李世民に言って赴任先に行きませんでした。

武徳9年(626年)。李世民は玄武門の変を起こして程知節も加わりました。この乱のあと程知節は太子右衛率になりました。その後、右武衛大将軍になり。七百戸を受けた。

太宗・李世民の時代

貞観元年(627年)。瀘戎栄三州諸軍事・瀘州刺史になりました。鉄山獠の反乱がおきたので鎮圧しました。

貞観7年(633年)。程知節は左領軍大将軍に任命されました。

貞観8年(634年)。原州都督になりました。

貞観11年(637年)。普州刺史になり「盧国公」の爵位を与えられました。この爵位は世襲が認められました。その後、幽州刺史・左屯衛大将軍などをつとめました。

貞観17年(643年)。2月28日、太宗・李世民は二十四功臣(唐の建国に功績にあった24人の重臣)の絵を描くよう命令しました。程知節は19番目に描かれました。

程知節は左屯衛大將軍に任命され、宮殿の北門の守備隊を監督。鎮軍大将軍の位を与えられました。

貞観18年(644年)。李世民が高句麗に遠征したとき、程知節は長安の守備を任されました。

貞観23年(649年)。太宗・李世民が亡くなると、程知節は翠圍宮から軍を率いて皇太子 李治を護衛することを命じられました。3ヶ月間 左延明門の外に留まりました。

高宗・李治の時代

西突厥との戦い

永徽2年(651年)。唐は西突厥の阿史那賀魯(あしな・がろ)は沙鉢羅可汗(イシュバラカガン)を名乗り挙兵。唐と戦っていました。

永徽6年(655年)。程知節は左屯衛将軍から左屯衛将軍になり、屯所の兵を監督することになりました。

顕慶元年(656年)。程知節は葱山道行軍大総管に任命され、西突厥との戦いの総司令官を任されました。12月に出陣。西突厥と戦闘になり唐軍は敵兵1500を討ち取りました。

副大総管の王文度は「勝利したとはいえ、我が軍は死傷者が出ています。慌てて敵を追うのではなく、自分たちの陣形を作り、ゆっくり慎重に動くことで、敵が来たときに戦えるようにしましょう」と進言。程知節はそのとおりに進軍させました。

このとき王文度は程知節の手柄に嫉妬していたとも、皇帝から「程知節は勇猛なだけに相手を甘く見て深追いしすぎないようにしろ」と密命を受けていたともいわれます。

唐軍の兵士は一日中馬に乗り、厳しい冬の風の中、重い鎧を着てゆっくりと歩きました。

やがて蘇定方が言いました。「我々は敵を殲滅するために出発したのです。今、私たちは手をこまねいて自分を守ることだけ考えている。臆病な人間が勝てると思いますか?皇帝はどうしてあなたを将軍にして、あんなやつを副大総管にしたのでしょうか?なにか裏があるに違いありません。王文度を逮捕して、陛下に上奏してください」

でも程知節は蘇定方の意見を却下しました。

唐軍が怛篤城に到着。数千の敵兵は降伏して門を開いていました。

王文都は「この者たちは我々が去れば必ずまた反乱を起こすでしょう。皆殺しにして財産を奪いましょう」と言いました。

蘇定方は「そんなことをしたら我々が泥棒になってしまう。それで国のために戦っていると言えるのか!」と言いました。

王文都は蘇定方の意見を却下。程知節も王文都の意見に賛成、程知節は軍に命じて怛篤城の人々を虐殺して財産を手に入れてひきあげました。

その知らせを聞いた阿史那賀魯(あしな・がろ)は遠くに逃げました。

程知節たちが都に戻ると。「賊を討伐できずに逃した」のを理由に程知節と王文都は解任されました。

程知節はその後すぐに程知節は岐州刺史に任命されました。でも程知節は罷免を願い出でて、高宗 皇帝は許可。

程知節は引退しました。

麟徳2年(665年)2月。長安の懐徳里の邸で病死しました。享年77。

 

テレビドラマ

大唐見聞録 2018年、中国 演:曹揚
大唐流流 2021年、中国 演:黒子 役名:盛驍靖

 

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