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安禄山・玄宗皇帝に仕え唐を揺るがしたソグド人武将とは

とう 5.4 隋唐 臣下・人々

安禄山は唐の玄宗皇帝に仕えた武将。

ソグド人の父と契丹人の母をもつ混血でした。契丹で暮らしていましたが唐に亡命。

6ヶ国語を話せるという言語能力と人付き合いの旨さを生かしてのし上がり。玄宗皇帝や楊貴妃にも気に入られました。

ところが楊貴妃の親戚で宰相の楊国忠とは対立。最終的には反乱を起こします。

皇帝に即位して「燕」を建国しますが。晩年の安禄山は認知症気味になり怒り散らすようになりました。反乱の最中に息子に殺害されてしまいます。

大悪人と紹介されることの多い安禄山ですが。

唐を揺るがした大事件「安史の乱」を引き起こした安禄山とはどんな人物なのでしょうか?

史実の安禄山はどんな人物だったのか紹介します。

 

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安禄山の史実

いつの時代の人?

生年月日:703年
没年月日:757年

姓 :安(あん)
名称:禄山(ろくざん)

国:突厥 → 唐 → 燕
地位:燕国皇帝
称号:光烈皇帝

実父:康氏
養父:安延偃(あん・えんえん)
母: 阿史徳(あしとく)氏
妻: 康夫人
  段皇后

子供:
 安慶宗(太子)、
 安慶緒(晋王)
 慶恩
 他、男子7人

彼女はです

日本では主に奈良時代になります。

生年と出身地

安禄山の生年は実はよくわかっていません。
703年説と705年説があります。757年に死亡したときに享年55とあるので703年説が有力です。

生誕地はモンゴル高原説と営州説があります。中国の歴史書「旧唐書」には「安禄山は営州柳城の雑種胡人」と書かれています。

安禄山は「営州出身」と名乗ったかのかもしれませんが。703年ごろの営州は契丹の支配下にあり、ソグド人は暮らしていません。ソグド人居住区たできたのはもっと後です。ソグド人や契丹人が暮らしていたモンゴル高原の可能性が高いかもしれません。

ソグド人と突厥人を両親にもつ

実の父はソグド人の「康」氏。サマルカンド出身者が「康」姓を名乗ることが多いです。

康氏がどのような人物だったのかよくわかりません。

母は阿史徳(あしとく)氏。突厥の巫女(シャーマン)だったといいます。
阿史徳は阿史那(あしな)氏とともに突厥の有力一族。

阿史徳氏ははじめ安氏と結婚、禄山が生まれました。
父・安氏が死亡。その後、阿史徳氏はブハーラ国出身の安延偃と再婚しました。ブハーラ国はソグド人作ったのオアシス都市。唐では「安国」と呼ばれていました。そのためブハーラ出身者は唐では「安」姓を名乗りました。「安」氏の故郷はシルクロードのオアシス国家・ブハーラ国(現在のウズベキスタン共和国ブハラ州)なのです。

禄山も安姓を名乗ります。

安延偃は突厥可汗国でソグド人集団を率いる武将でした。

安延偃の一族には唐に仕える安波注という兄がいました。安氏は突厥と唐に繋がりのある一族だったのです。

ゾロアスター教

また、禄山(ろくざん)の名はソグド語で「明るい」を意味する「ロクシャン」が由来といわれます。

光を崇拝するゾロアスター教(唐では祆教(けんきょう)と呼ばれます)の影響を受けた名前のようです。ソグド人にはゾロアスター教が広まっていました。

禄山の誕生については伝説があります。
子供のいなかった阿史徳氏が戦いの神「軋犖山、または阿犖山」に祈ったところ、神が応えて禄山が生まれた。と言われます。

そのため最初は「軋犖山(あらくさん)と名乗っていましたが、唐に亡命後に中国風の「安禄山」に名前を変えたと言われます。

 

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唐の武将時代

唐に亡命

716年。安禄山が十代のころ。突厥で内乱があって安禄山は親戚の安孝節、思順、文貞たちとともに唐に亡命。一族で唐に仕えていた安貞節を頼りました。

このとき「安」という姓を名乗りました。

安禄山はいくつもの言葉が話せました。話せた言語は6つとも9とも言われます。安禄山はソグド人と突厥人を親にもちます。当時の突厥はシルクロードを通って様々な民族が行き交う場所でもあったのです。

そこで安禄山は言語能力を生かして交易の仲介人の仕事につきました。

唐の軍人になる

732年。唐の幽州節度使の張守珪に採用されました。

これには逸話があって。安禄山が羊を盗んで捕まり、張守珪の前に連れて行かれました。そこで棒打ちの刑になるところ「あなたさまは奚や契丹を討ち滅ぼしたくないのですか?壮士(勇壮な者=ここでは安禄山のこと)を殺すというのですか?」と叫びました。

張守珪は面白いやつだと思って安禄山を配下にしたということです。このように安禄山は人たらしなところがあり、人に取り入るのが非常に上手かったのです。

張守珪のもとで軍人として働きました。安禄山は地理に詳しく、契丹との戦いで手柄を立て出世していきます。張守珪に気に入られ養子になります。

736年。このころまでには平盧討撃使、左驍衛将軍になっていました。

740年。平盧兵馬使になりました。

741年。営州都督になりました。

宰相・李林甫のもとで出世

742年。平盧節度使・左羽林大将軍になりました。
 節度使=軍団の長官。軍隊だけでなく地方行政・財政も担当するので権限が大きい。

このころ李林甫が唐の宰相を務めていました。李林甫は唐皇室の一族。李林甫は自分の力を維持するため、科挙出身者を嫌い、後ろ盾をもたない者や非漢人を要職につけていました。安禄山は李林甫に気に入られ節度使になったといわれます。

安禄山の出世は李林甫との関係が大きいです。

743年。長安に入り驃騎大将軍になりました。

744年。范陽節度使を兼任することになりました。安禄山は幽州城(現在の北京)に入りました。

范陽節度使は9万の兵力をもつ大部隊でした。唐がマンチュリア(中国東北部満洲地方)にいる契丹や奚は危険だと考えていたからです。

ソグド商人・ゾロアスター教信者を配下におく

現在は中国の中心都市になってる北京ですが唐の時代には幽州と呼ばれ遊牧民族が移住したりソグド人などシルクロードを通ってやってきた中央アジアの人々が交易を行っていました。ソグド人は商売熱心でシルクロードの各地で交易を行っていました。

交易都市の支配者になった安禄山は唐の各地でソグド人商人に交易を行わせました。

安禄山のもとには珍しい品物や莫大な富が集まりました。

安禄山はソグド商人たちとともにたくさんの供物を並べ、巫女は鼓を打って歌って踊り、天(ゾロアスター教の神)に祈りを捧げる儀式をしました。

安禄山はソグド商人やゾロアスター教信者をまとめ、唐国内のソグド人社会のリーダーになっていきます。

745年。奚や契丹と戦い勝ちました。

747年。御史大夫を兼任。妻の康氏と段氏に「国夫人」の称号が与えられました。

隴右・朔方・河西・河東節度使の王忠嗣は安禄山と仲が悪く玄宗に「安禄山は謀反を起こすでしょう」と何度も進言しました。王忠嗣は李林甫に嫌われます。王忠嗣は748年に命令違反で失脚しました。

このころから宰相の李林甫と楊国忠が対立。楊国忠は楊貴妃の親戚です。

750年。長安に入り、奚の捕虜8000人を朝廷に献上。上谷での貨幣の鋳造を許可されます。

楊貴妃に気に入られる

このころ安禄山は玄宗のお気に入りの臣下になっていました。楊貴妃の親戚・楊国忠も玄宗のお気に入りでした。楊国忠は若く口先ばかりの人間だったので、安禄山は楊国忠を高く評価しませんでした。長安に入るときは楊国忠に出迎えさせました。

751年。名門出身でなく外国出身の安禄山は朝廷に繋がりがあまりありません。李林甫には気に入られていますが、李林甫の力が強くなるのを警戒した玄宗は楊国忠を寵愛しはじめました。

新しい人脈を作ろうと思った安禄山は玄宗が寵愛している楊貴妃に注目。

巧みな話術や奇抜なパフォーマンスで楊貴妃を楽しませ、楊貴妃の信頼を得ます。そして楊貴妃の養子になりました。安禄山は楊貴妃より16歳も年上ですが、地位の高い者と臣下の名目上の関係なので年齢は関係ありません。

玄宗から長安の親仁坊に屋敷を与えられ河東節度使を兼任しました。
平盧・范陽・河東、3つの節度使を兼任。安禄山は大きな軍事力を持ちます。
長男の安慶宗は郡主と結婚して太僕卿に任命され、
次男の弟の安慶緒は鴻臚卿に任命されました。

751年。5、6万の兵を率いて契丹と戦いましたが。長雨で弓矢が濡れ兵も疲弊している所に契丹と奚に挟み撃ちにされて敗退。何思徳などの将兵を失いました。次男の安慶緒の活躍で撤退に成功します。

このころから楊国忠が安禄山は謀反を企んでいると訴えるようになります。

752年。契丹を討とうとしました。このとき玄宗に朔方節度使の阿布思(あぶし)を同行させるように願い出ました。阿布思は突厥から亡命した武将で、配下にテュルク系遊牧民の同羅(トーラ)衆を率いていました。

阿布思は安禄山に従うのを嫌って北モンゴルに逃走しました。ところが阿布思はウイグルと戦って破れ処刑されます。安禄山は阿布思が率いていた同羅衆を自分の配下にしました。

楊国忠との対立が強まる

753年1月。宰相の李林甫が死亡。

朝廷で権力を握ったのは楊国忠でした。楊国忠は李林甫の親族や親しいものを処分していきます。安禄山とも険悪な関係になりました。

楊国忠は哥舒翰と一緒に「安禄山は謀反を起こすつもりです」と玄宗に訴えました。安禄山は玄宗に取り入ろうとしましたが、謀反を起こすつもりはありません。謀反の証拠もなかったので玄宗は「武官と文官の仲が悪いのはいつものことだ」と笑って相手にしませんでした。

玄宗は宦官の輔璆琳に調査させました。彼は安禄山から賄賂をもらっていたので安禄山の忠誠を盛んに報告しました。

楊国忠は玄宗に「安禄山を都に呼んでも反抗して来ないでしょう」と言いました。

安禄山はそのことを楊貴妃から聞きました。

754年。安禄山は正月に華清宮にて玄宗に会いました。

そして「私は異国人で文字が読めません。陛下は私を昇進させることはできません。楊国忠は私を殺したいに違いありません」と泣きました。

玄宗は安禄山をなだめ、左僕射・隴右群牧都使に任命。かつて李林甫の配下だった吉温(きつ・おん)を副官として武部侍郎・御史中丞に就任させました。

その後、安禄山を宰相になるように運動します。

楊国忠に反対され実現しませんでした。

さらに吉温も汚職の罪で左遷させました。安禄山は冤罪だと玄宗に訴えましたが却下されました。吉温は755年に刺客によって殺害されます。

安禄山の反状を訴えるものは、玄宗の怒りを買い、縛り上げられて安禄山の元に搬送された。

755年。腹心の何千年を都に派遣して漢人の将軍を胡人に代える許可をもらいます。

玄宗が再び長安に呼び出しますが病気と偽り行きませんでした。
長安で行われた安慶宗の婚礼も出席しませんでした。

楊国忠は安禄山の秘密を暴こうと京兆尹の李峴にさぐらせます。長安の安禄山の邸宅を囲ませて家人を捕らえました。安禄山はこれに抗議。李峴は零陵郡太守に左遷させられました。

馬3千頭を献上する名目で6・7千の兵を都に入れようとした。ところが達奚珣の反対にあって玄宗から却下されました。

その後、玄宗からの使者を監禁しました。

このあたりには反乱を決めていたようです。

安禄山の反乱

755年11月。安禄山は幽州で挙兵しました。このとき掲げた目的は「逆臣 楊国忠の抹殺」でした。

安禄山に従ったのは安禄山指揮下の平盧・范陽・河東の軍団。同羅、契丹、奚などマンチュリアや河北で暮らす騎馬遊牧民の軍団も従いました。

15万の軍団は長安を目指しました。

玄宗ははじめは安禄山の反乱を信じようとしませんでした。でも謀反が事実だと知ると、長安にいた安禄山の長男・安慶宗と安禄山の妻・康氏を処刑しました。

12月2日。安禄山の軍は黄河を渡り霊昌郡・陳留郡・滎陽郡を陥落させます。そして捉えた唐の武将・張介然と崔無詖を処刑。

洛陽に迫りました。

唐は討伐軍を差し向けましたが、安禄山の先発隊と戦い敗退しました。

12月12日。洛陽を陥落させます。捕らえた唐の武将・李憕と盧奕を処刑しました。

幽州から洛陽まで約940キロをわずか34日で駆け抜け洛陽を占領しました。最短距離でも1日28キロは進んだことになります。平坦な中国大陸だからできることですが、この進撃の速さが騎馬遊牧民の恐ろしいところです。

ところが河北の常山郡太守の顔杲卿と平原郡太守顔真卿が抵抗を続けます。安禄山の部下・何千年と高邈が捕まりました。

范陽を守っていた賈循が唐に裏切ろうとしたので処刑。

燕の建国

756年正月。安禄山は洛陽で「雄武皇帝」として即位。国名を「大燕」にしました。

ところが史思明が敗北して、河北を奪われたり。各地で唐軍の反撃にあい占領地が分断されてます。反乱を勧めていた高尚と厳荘を呼び出して叱りつけたり。

不利になると5月には味方のはずの契丹、奚が范陽を攻撃する出来事もありました。

安禄山側としては苦しい展開になりました。

唐の側でも仲間割れが怒り、哥舒翰と楊国忠が対立。

6月。潼関の戦いで唐軍を破り哥舒翰を捕虜にします。この勝利は唐に衝撃を与えました。河北の唐軍の勢いもなくなり再び占領。

玄宗は長安を棄てて蜀に避難。その途中で兵たちが反乱を起こして楊国忠と楊貴妃一族が処刑されました。

安禄山は孫孝哲・張通儒・安守忠・田乾真を長安に派遣。孫孝哲たちは長安に残る唐の皇族や臣下とその家族を殺害、略奪を行いました。

安禄山の最期

こうして安禄山が有利になりつつありましたが。安禄山はこのころから臣下に会おうとせず厳荘と通して話すようになりました。

晩年、安禄山は肥満になり腫瘍と眼病に悩まされました。安禄山はしだいにノイローゼ気味になりまわりの者に当たり散らすようになります。

晩年の安禄山は糖尿病だったと考えられます。
腫瘍と眼病は糖尿病の症状にもありますし。ひどくなるとアルツハイマー型認知症にもなります。晩年の怒りっぽさ、精神の不安定さは認知症の症状が出ていたのかもしれません。そこで厳荘はなるべく人に会わせないようにしたのかもしれません。

段夫人の生んだ慶恩を寵愛、後継者にしようとしました。

そのため晋王・安慶緒は不安になりました。

757年1月29日。安慶緒は安禄山の側近の厳荘と手を組み安禄山を暗殺しました。

あん碌山はこのとき55歳だったといいます。

安禄山が起こした反乱はその後、息子の安慶緒、さらには史思明やその子の史朝義に引き継がれます。

「安史の反乱」とよばれるこの大きな戦いは763年まで続き大帝国唐の衰退を早めることになるのでした。

 

テレビドラマ

麗王別姫 2017年、中国  演: 林雪

 

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