PR

裴行倹・武則天の皇后即位に反対して左遷された将軍

とう 5.4 隋唐 臣下・人々

裴行倹(はい・こうけん)は唐の武将。

高宗に仕えました。

裴行倹は高宗が武則天を皇后にしようとすると反対。西域に左遷されました。

人材採用でも有能な人材を採用して功績をあげています。西域で突厥が反乱を起こすと鎮圧に貢献。

功績が認められ長安で暮らしました。

その後も突厥の反乱があるたびに鎮圧軍として派遣されました。

名将の蘇定方から兵法を学び、他の武将が苦戦する中でも成果をあげています。

 

史実の裴行倹はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

裴行倹の史実

いつの時代の人?

生年月日:619年
没年月日:682年6月9日

名称:裴 行倹(はい・こうけん)
本貫:河東裴氏
父:裴仁基
母:
妻:陸氏(陸爽の娘)病死
再婚:庫狄氏(華陽夫人)

長男:裴貞隱、早逝。
次男:裴延休、并州文水令。
三男:裴慶遠、協律郎。
四男:裴光庭

長女:裴氏 鳳閣侍郎蘇味道の妻
次女:裴氏 弘文館学士、天官侍郎王勮の妻

彼は唐の太宗~高宗時代の武将。

日本では飛鳥時代になります。

裴行倹が生まれるまで

619年に絳州聞喜(現在の中国山西省聞喜県)生まれました。

河東裴氏の 中眷裴 という家系の出身です。
裴一族は北朝から隋・唐に仕えた士族(貴族)です。

中眷裴の出身には他にも隋煬帝の使者として小野妹子に同行して日本に来た裴世清がいます。

裴行倹の曽祖父は 北周で 驃騎大将軍を務めた裴伯鳳。

父の裴仁基と兄の裴行儼は隋に仕えた武将でした。

世の中は乱れ各地で反乱が起こりました。

大業14年(618年)。隋煬帝が宇文化及に殺害され。各地では新しい皇帝に名乗りをあげるものがいました。唐を建国した李淵もそのひとり。

武徳2年(619年)。王世充たちは越王 楊侗を担いで隋の皇帝にしました。このころ。裴仁基と裴行儼は王世充の配下になっていました。

王世充は 楊侗を殺して自分が皇帝になり「鄭」を建国しました。しかし王世充は横暴な皇帝でした。

裴行倹がまだ母親のお腹の中にいたころ。王世充の横暴を許せなくなった裴仁基と裴行儼は仲間を集めて反乱を起こそうとしました。ところが密告する者がいて処刑されてしまいます。

裴行倹が生まれたときには父と兄が亡くなっていました。

唐太宗の時代

少年時代の裴行倹は祖先の功績で弘文館の学生に採用されました。弘文館は書籍の保管と研究をしたり将来の役人を育てる学校です。

貞観年間(627~649年)に科挙の明経科に合格。

左屯衛倉曹参軍になりました。

左衛中郎将の蘇定方(そ・ていほう)は「今、私の兵法を伝授できる者はいない。だが、お前は伝授するにふさわしい」と言って蘇定方は自分のもつ知識をすべて裴行倹に教えました。

裴行倹は後に西域で他国と戦うことになります。このとき身につけた兵法が役に立ちました。

唐高宗の時代

永徽6年(655年)。長安県令(県知事)になりました。

武則天の皇后即位に反対して地方に左遷

このころ。唐高宗 李治は王皇后を廃して武昭儀(武則天)を皇后にしようとしていました。

それを知った裴行倹は、そんな事をしたら国がおかしくなってしまうと考え大臣の長孫無忌(ちょうそん・むき)、褚遂良(ちょ・すいりょう)たちと密かに会って対策を相談していました。

ところが大理寺卿の袁公瑜が武昭儀(武則天)の生母・楊氏に密告。

裴行倹は降格になって西州都督府長史に左遷されました。西州都督府とは今の新疆ウイグル自治区トルファン市(長安から約1800km西に行った場所)にあって西域を管理していた役所です。

麟徳2年(665年)。安西大都護になりました。

総章2年(669年)。司列少常伯(吏部侍郎)になりました。十数年間、李敬玄、馬載同と一緒に役人の採用を担当。有能な人材を発掘して「裴と李」、「裴と馬」と呼ばれました。

当時、官吏の候補者がかなり増えていたので。裴行倹と李敬玄は張仁禕を採用して。官吏の選考基準を定めた規則を作りました。

 

PR

突厥との戦い

裴行倹は蘇定方から兵法を学んでいて、彼自信の実直さと誠実さで兵士たちからも信頼されていました。そのため西域での戦闘で多くの戦果をあげました。

西域での反乱鎮圧

西突厥(西テュルク)の阿史那步真可汗(あしな・ぶしん・かがん)の死後。西テュルク内では後継者を巡って争いが起こりました。

咸亨元年(670年)。吐蕃(チベット)は西域18州に攻めてきました。唐の天山南路の地域はすべて吐蕃に占領されました。

咸亨2年(671年)。唐高宗は西突厥の部族長・阿史那都支(あしな・とし)を左驍衛大将軍 兼 匐延都督に任命チベットに対抗させようとしました。

調露元年(679年)。西突厥(西テュルク)ところが阿史那都支は十姓可汗を名乗り反乱を起こしました。突厥人の李遮匐とともにチベットと同盟して逼安西(新疆庫車)に攻めてきました。

儀鳳4年(679年)6月。唐の朝廷は阿史那都支たちへの対策を話し合いました。裴行倹は将軍の劉審禮がチベットとの戦いで負けて捕虜になっていたので、正面から戦うのは危険と判断してある作戦を進言しました。高宗はその提案を許可。

高宗は裴行倹を大食(アラビア)大使に任命。サーサーン朝ペルシア滅亡後、吐火羅(トカラ)国に亡命していたヤズデギルド3世(伊嗣侯)の子・ペーローズ3世(卑路斯)を護衛するという名目で軍を派遣しました。

儀鳳4年(679)7月。裴行倹は軍を率いて西州を通過。周辺の部族を集め「暑いので秋になったら西に進軍する」と宣言。

狩りをしていると思わせて相手を油断させ、密かに兵を集めて阿史那都支の部落(部族以下、集落以上の規模の集団のこと)から10里あまり(約4km)まで軍を進めると阿史那都支の和睦の使者を派遣しました。

阿史那都支と李遮匐は唐軍が来るのは9月ごろだろうと思っていたので油断していました。

阿史那都支は軍を集める暇もなく家族や500騎で迎え撃つことになってしまい、唐軍に捕らえられてしまいました。

裴行倹は周辺の部族長を集め服従させると李遮匐を攻めて降伏させました。

その後、裴行倹はペーローズ3世(卑路斯)を自力で帰国させ。副将の王方翼を現地に残して捕虜の阿史那都支と李遮匐を連れて長安に戻りました。

 

阿史那泥孰匐を担いで突厥が挙兵

調露元年(679年)。こんどは北部で突厥首領・阿史徳温傅と阿史那奉職が反乱を起こし阿史那泥孰匐(あしな ないじゅくぶく)を「匐為可汗」にしました。

高宗は蕭嗣業に鎮圧を命じましたが唐軍は敗退、死者数は1万を超えました。

そこで高宗は裴行倹に鎮圧を命じました。

裴行倹のもとには30万の兵が集まりました。裴行倹は過去に物資の輸送部隊が襲われた事を知り、300台の荷車を用意して輸送部隊に偽装した兵を隠れさせ。物資を奪いに来た突厥兵を撃退しました。その後、裴行倹の部隊は突厥軍と戦って勝利しました。

敗北した阿史那泥孰匐は部下に殺害されました。

裴行倹は長安に戻りました。

阿史那伏念が可汗を自称して挙兵

こんどは阿史那伏念が可汗を自称。阿史徳温傅と合流しました。

永隆2年(680年)。裴行倹は再び軍を率いて突厥軍と対峙しました。そしてスパイを送り込み嘘の情報を流して阿史那伏念たちを仲違いさせました。疑心暗鬼になった阿史那伏念は裴行倹に降伏。阿史徳温傅を捕らえて欲しいと訴えてきました。そして裴行倹は阿史徳温傅を捕らえました。

裴行倹は降伏した阿史徳温傅と阿史那伏念を長安に護送。

反乱鎮圧を聞いた高宗は喜びました。

裴行倹は降伏した阿史那伏念たちは殺さないつもりでした。ところが裴行倹の功績を妬んだ侍中の裴炎(はい・えん)が高宗に「阿史那伏念は程務挺や張虔勗に追われ、北に逃げたところをウイグルと遭遇して降伏したのです」と報告。

その結果、阿史那伏念と阿史徳温傅は処刑されてしまい。裴行倹は「喜県公」(国公、郡公の下、あまり地位は高くない)の爵位が与えられただけでこの件は裴行倹の功績にはなりませんでした。

その後、裴行倹は「降伏した将兵を殺した後が怖い。このあと服従するものがいなくなるかもしれないからだ」と語り。病気を理由に公の場には姿を表さなくなりました。

裴行倹の最期

永淳元年(682年)。その後、また突厥が反乱を起こしました。

裴行倹は鎮圧軍の指揮を任されました。

ところが4月28日。長安の自宅で息を引き取りました。享年64。病死だったといいます。

死後「幽州都督」の位が与えられました。

後に裴行倹の不安は現実になり。突厥人はソグド人と同盟して唐に抵抗。東テュルク帝国を再建します(突厥第二可汗国といいます)。

 

裴行倹は武勇や策略だけでなく、草書(書道)にも優れていたといいます。文集20巻や、選譜などを書いたと言われますが今は残っていません。

 

テレビドラマ

風起花抄 2021年、中国 演:許魏洲(ティミー・シュー) 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました