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薛元賞・唐の都の治安を守った過激な都知事

とう 5.4 隋唐 臣下・人々

薛元賞(せつ げんしょう)は9世紀の唐の役人。

17代皇帝・文宗、18代・武宗、19代・宣宗に仕えました。

京兆尹という都知事の役目をしていました。薛元賞は正義感が強く過激とも思える方法で法を乱すものを処罰していました。当時は宦官や軍の兵士たちが横暴で街でも強盗や暴力事件を起こし、人々に迷惑を掛けていました。

そんな横暴な兵たちを取り締まったので民衆からの評判は良かったようです。

しかし当時、唐の朝廷は「牛李の党争」という酷い派閥争いが行われていました。李派のリーダー・李徳裕と親しかったので宣宗時代に李徳裕が失脚すると地方に左遷されてしまいます。

中国ドラマ「宮廷恋仕官」の薛汝成のモデルになった人物です。

史実の薛元賞はどんな人物だったのか紹介します。

 

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薛元賞の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:852年

姓 :薛氏
名称:元賞

国:唐

父:不明
母:不明

日本では平安時代になります。

 

おいたち

両親、出身地は不明。

華原県の県令を務めました。

文宗の時代

太和4年(830年)。漢州刺史になりました。

このころ。剣南西川節度使をしていた李徳裕が吐蕃が維州に投降してきたと報告しました。宰相の牛僧孺は受け入れを反対。吐蕃に帰そうとします。このとき薛元賞は投降を受け入れるように進言しました。ところが文宗は却下。投降した将兵を吐蕃に送り返すよう命令しました。

太和6年(832年)。刺史になり。司農卿に昇進しました。

宦官の軍隊・神策軍との対立

太和9年(835年)12月。甘露の変が起こりました。その後、宦官たちはますます横暴になりました。宦官は神策軍という皇帝直属の軍隊(禁軍)を指揮していたので武力もあります。

宰相 鄭覃は京兆尹(都知事)の張仲方が職務怠慢なので薛元賞に交代させました。

薛元賞が宰相の李石に会うため朝堂を訪ねた時、李石が神策軍の武将と激しく口論していました。薛元賞は部下を派遣、神策軍の武将を捕らえました。そして外に連れ出して服を引き剥がして跪かせました。

それを聞いた神策軍の中尉(指揮官)仇士良は薛元賞を呼び出しましたが。薛元賞は「用が済んだら行く」と返事して神策軍の武将を杖刑にして殺して、自分は囚人服に着替えて仇士良の所に行きました。すると仇士良は「愚かな書生のくせに禁軍の将軍を殺すとは何事だ!」と激怒。

薛元賞は「中尉も宰相もみな朝廷の大臣です。中尉の部下が宰相に無礼を働くことは許されませんし。宰相の部下が中尉に無礼を働くことも許されません。あなたも法を守るべきです。どうか私を殺してください」と答えました。

仇士良はしかたなく、薛元賞と酒を飲んでこの件は終わりにしました。

開成元年(836年)。尚書左僕射の令狐楚は甘露の変で犠牲になった宰相の王涯、賈餗たちを改めて埋葬しなおすように上奏。文宗は認めました。皇帝の命令をうけた薛元賞は王涯、賈餗や11人を丁寧に埋葬しました。

ところがその後、仇士良が密かに墓を盗掘、彼らの骨を渭水(河)に捨ててしまいました。

開成元年(836年)。薛元賞は京兆尹に加えて武寧節度使、徐泗宿濠観察使も兼ねました。
開成2年(837年)。領内の税を軽くしたので民衆は喜びました。

 

武宗の時代

840年。文宗が死去。武宗 李瀍が即位しました。

会昌元年(841年)。天平軍節度使になりました。

李徳裕が宰相になりました。

会昌4年(844年)。薛元賞は再び京兆尹(都知事)になりました。

ゴロツキを取り締まり

そのころ、長安では頭を剃って体に入れ墨を入れた者たちが人を襲う事件が多発していました。

彼らはただの不良ではなく軍に籍を置く兵隊崩れでした。彼は軍の力を頼って街で強盗や暴行事件を繰り返していました。そして捕まりそうになると軍隊に逃げ込んでしまいます。そのため街の役人も手が出せません。

そこで薛元賞は京兆尹に就任すると密かに部下に命じて入れ墨をした若者たちを捕らえさせ、杖刑で30人あまりを死罪にして遺体を路上に放置。彼らの仲間たちは震え上がり、火で入れ墨を消しました。

このように当時は禁軍の兵たちが街でも横暴を働いていました。禁軍は役所に嫌がらせをしましたが。それでも薛元賞は容赦なく彼らを取り締まりました。そのため禁軍の横暴は抑えられ、街の人々は薛元賞を頼りにしました。

その後、薛元賞は吏部尚書に昇進。1年後。薛元賞は工部尚書になりました。

宰相の李徳裕は薛元賞の弟・薛元亀を京兆少尹にしました。

 

宣宗の時代に左遷

会昌6年(846年)。武宗が死去。宣宗が即位しました。

宣宗は武宗に仕えていた李徳裕が嫌いだったので李徳裕を降格させました。

宣宗は薛元賞兄弟を李徳裕の仲間だと考え、薛元亀を有罪判決にして崖州の司戸参軍に左遷。薛元賞を降格して忠州刺史に異動させました。

その後。薛元賞は袁王傅になりました。袁王傅が具体的にどのような役目なのかはよくわかりませんが、言葉通りなら袁王 李紳の守役や付き人(傅)です。

大中3年(849年)。この年、李徳裕が死亡。「牛李の党争」も終わりました。
銀青光禄大夫 袁王傅になり 昭義節度使に昇格。

大中6年(852年)。薛元賞が死去。

 

「牛李の党争」は牛派が勝利。牛派の李派に対する弾圧は容赦なく。李派の者は次々と処分を受けました。その派閥に所属していると言うだけで「悪」のレッテルを貼られて処分を受ける時代でした。

そのため歴史書でも李派の人々が悪く書かれています。全員が悪人というわけではなく、処分を受けた李徳裕にしてもそれなりの功績は残しています。薛元賞は確かにやり方は過激ですが、禁軍の横暴を抑えるためにはそのくらいの事をしないといけなかったのでしょう。

それぞれの派閥に宦官勢力も加わっているので複雑でどちらが善でも悪でもない激しい権力争いの時代でした。薛元賞はその勢力争いに巻き込まれて左遷されてしまったのです。

 

テレビドラマ

宮廷恋仕官 2021年、中国 演:郭秋成 薛汝成

薛汝成のモデルになりました。劇中でも宦官勢力と争ったり、○王と縁があるなど。薛元賞らしい部分もありますが。

史実の薛元賞は過激なところはあるものの、酷い悪人というわけではありません。薛元賞が左遷されたのも派閥争いに巻き込まれたため。

薛元賞は宣宗の命令で左遷されたという事実があるので、宣宗を主人公の味方として描いているこのドラマでは薛汝成はラスボス級のように描かれます。そのため名前を変えているのでしょう。

 

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