金俊(キム・ジュン)は高麗の武人でした。
もともとは奴婢でしたが、出家して僧侶になり。優秀さを認められた金俊は推薦で武官になります。
当時の高麗は朝鮮半島でも珍しい武官が権力を持っていた時代。武臣政権の時代です。
金俊はときの権力者・崔竩に反乱を起こし、武臣政権のトップになりました。
しかし武臣たちの間で争いが起こり金俊は暗殺されてしまいます。
史実の金俊(キム・ジュン)はどんな人物だったのか紹介します。
金俊(キム・ジュン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1268年
名前:金俊(キム・ジュン)
別名:金仁俊(キム・インジュン)若い頃の名前とも
法名:仁祐(ムサン)
父:金允成(キム・ユンソン)
彼が活躍したのは高麗の主に23高宗~24代元宗の時代です。
日本では鎌倉時代になります。
朝鮮半島では珍しい武臣政権
高麗と朝鮮王朝は文官が力を持つ国でした。武官はいても地位は低いままでした。
高麗の18代毅宗の時代。待遇に不満を持った武官が反乱を起こし武臣政権を作りました。役100年続く武臣政権の始まりです。日本の幕府と違って高麗の武臣政権のトップは世襲制ではありません。
でも19代明宗の時代から崔氏が力を持ち武臣政権のトップの地位・教定別監を世襲しました。金俊が生きたのは武臣政権の末期。崔氏が力を持っていた時代です。
1231年からはモンゴル帝国との戦争が始まりました。首都・開京は占領され、朝廷は江華島に避難しました。
海を渡れないモンゴル軍は高麗本土を蹂躙。長引くモンゴル帝国との戦争で高麗の国土は荒廃しました。高麗の文官達は徹底抗戦を主張する武臣政権に不満を持ち、モンゴルに降伏して戦争を終わらせようと考え始めていました。
そんな時代に生きたのが金俊です。
金俊の一生
高麗の武臣政権のトップ崔忠献の家奴だった金允成の息子として産まれました。
金允成は主人の崔忠献に逆らい満祖とともに反乱を起こし鎮圧されました。
金俊は寺に入れられ僧になりました。
崔瑀(チェ・ウ)の妾・安心(アンシム)との密通がばれて棍棒で40回ぶたれたこともありました。
中郞将だった朴松庇(パク・ソンビ)の推薦で崔沆(チェ・ハン)に仕えました。崔沆は朴松庇の上司で崔忠献の孫でした。
1257年(高宗44年)。崔沆が死ぬと、庶子の崔竩(チェ・ウィ)が執権になりました。金俊は崔竩に不満を持ちました。
モンゴルへ帝国への抵抗を続け、横暴をはたらく崔氏政権に嫌気がした柳璥(ユ・ギョン)たち文官は崔沆の殺害を考えるようになります。
1258年(高宗45年)。柳璥は金俊に接触して正規軍の三別抄の一部を味方にしました。僧侶出身の金俊も長引く戦争には疑問をもっていたので柳璥に協力したようです。
金俊は武臣の林衍(イム・ヨン)、崔温(チェ・オン)らと共に兵を動かし崔竩を殺害しました。崔氏の権力の源だった私兵組織の都房を廃止。崔氏の財産を王室に返上しました。
高麗の権力のトップに立つ
金俊と柳璥はただちに世子(後の元宗)を元に差し出して元と和平を結びます。高宗は元への抵抗を止め従属を宣言しました。
金俊は衛社功臣となり要職を歴任。門下侍中や武臣政権の最高位である敎定都監になりました。金俊はかつての崔氏に匹敵する権力と富を手にしました。崔氏を倒しても武臣政権は続きました。
1559年。高宗が死去。元宗が即位します。
1560年。モンゴル皇帝クビライが即位。
元宗は金俊が考えているよりも急進的な親モンゴル路線をとろうとしました。
しかし金俊はモンゴルへの抵抗を主張し続けました。モンゴルの使者を殺害することもありました。
和平は結んだものの、元との約束をウヤムヤにしてその後も権力を維持し続ける方法は崔氏がとった方法と同じでした。
金俊の権力は彼に賛同する一部の者に支えられていたので崔氏の政権よりも弱いものでした。やがて権力を独占する金俊に対する反感を持つものがうまれます。
かつて一緒に崔氏政権を倒した仲間の中にも金俊を快く思わない者がいました。
養子になった林衍もその一人です。
あるとき田の境界を巡って争いが起こり、林衍の妻子が金俊の奴婢を殺害しました。金俊は激怒して林衍の妻子を江華島から追い出そうとしました。金俊と林衍の関係も悪くなります。
1268年(元宗9年)。元宗は金俊の操り人形になるのを嫌い、金俊に不満をもっていた林衍と手を結び、三別抄を味方にひきこんで金俊を殺害させました。
金俊の一家や側近も殺害されました。
武臣政権の崩壊
金俊亡き後、モンゴルの支配に抵抗する林衍ら武臣は元宗の政策に反対しました。
武臣の主導権をとった林衍は元宗を廃位に追い込もうとしました。しかしモンゴル帝国の介入で阻止されます。モンゴル帝国の力を借りた元宗の勢力によって武臣政権の指導者は殺害されました。
100年続いた高麗の武臣政権は崩壊し、高麗はモンゴル帝国に支配される国になったのです。
金俊は長引く戦争をやめさせようとしたのかもしれません。
でも結果的に武臣政権を崩壊させ、高麗のモンゴル帝国への服従を早めることになりました。
高麗を服従させたモンゴル帝国は日本を次の標的にします。モンゴル帝国が最初に日本に使者を送ったのが1268年でした。そのあと発生したのが元寇(蒙古襲来)です。高麗の武臣政権の崩壊は日本の新たな危機の始まりでした。国は違っても歴史は繋がっているのですね。
テレビドラマ
武神 MBC 2012年 演:キム・ジュヒョク
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