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廉興邦(ヨム・フンバン)は挫折を味わい堕落した

3 高麗の重臣や人々

廉興邦(ヨム・フンバン)は高麗の重臣。

恭愍王に仕え、若くして学問に優れ改革を目指す人物でした。元や異民族から高麗を守るために戦いました。

しかし恭愍王の死後、親元派の李仁任(イ・イニム)が力をつけると李仁任の腹心となり私腹を肥やしました。しかし李仁任の引退後、処刑されます。

史実の廉興邦(ヨム・フンバン)はどんな人物だったのか紹介します。

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廉興邦(ヨム・フンバン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1388年

名前:廉興邦(ヨム・フンバン)
雅号:東亭
父:廉悌臣
母:
妻:

高麗王朝末期の重臣。
日本では室町時代の人になります。

1357年科挙に合格して役人になりました。

若くして学問に優れた人物だったといいます。一部の権門勢力が富を独占する高麗に危機感を覚えて、改革を訴える人物でした。

1362年。紅巾賊を撃破して開京を守った功績として衛尉尹の位を与えられ、二等功臣に任命されました。

1367年。密直知申事に任命されました。

1374年。牧胡の乱
済州島にいたモンゴル人が反乱を起こしました。高麗は元の支配下にありました。元は済州島の牧場を管理するためにモンゴル人を派遣していました。これを「牧胡(モクホ)」といいます。胡はモンゴル人の意味です。

恭愍王は即位後、明に接近して元に従うのをやめる態度を見せました。済州島にいたモンゴル人と高麗の役人の関係が悪化、高麗の役人を殺害することもありました。

明は中国大陸から元を追い出すと高麗に圧力をかけてきました。明は高麗に対して済州馬2000頭を出すように要求。済州島のモンゴル人は敵の明に馬を渡すことを拒否しました。

そこで高麗は済州島のモンゴル人を討伐することにしました。崔瑩将軍を派遣。廉興邦(ヨム・フンバン)も都兵馬使として鎮圧軍に加わりました。

この戦いで高麗軍は済州島にいたモンゴル人を壊滅させ、モンゴルの支配下にあった済州島は高麗の支配下に入りました。

ところが恭愍王が元よりの家臣に殺害され、禹王が即位しました。

禹王のもとで力を握った李仁任(イ・イニム)は明に反発して元よりの立場をとりました。親明派の官僚を追放し、北元の使者を向かえました。

廉興邦(ヨム・フンバン)は鄭夢周(チョン・モンジュ)たちとともに北元の使者を迎えることに反対しました。ところが廉興邦(ヨム・フンバン)は李仁任(イ・イニム)に恨まれ島流しになります。

李仁任(イ・イニム)派になった廉興邦(ヨム・フンバン)

挫折を味わった廉興邦(ヨム・フンバン)は、権門勢力の貴族たちに接触、彼らに取り入ることで政界に復帰しました。

改革を目指していた廉興邦(ヨム・フンバン)は、李仁任(イ・イニム)派に寝返り、彼ら共に私腹を肥やすことに熱心な奸臣になってしまいました。

以後、廉興邦(ヨム・フンバン)は李仁任の腹心として働きます。李仁任(イ・イニム)、廉興邦(ヨム・フンバン)、林堅味(イム・ギョンミ)は良い土地を持っている人々から土地を奪って私腹を肥やしました。

李仁任(イ・イニム)が政界を引退後は林堅味(イム・ギョンミ)と共に横暴を繰り返します。

廉興邦(ヨム・フンバン)の家奴・李光が趙胖の土地を奪う事件が起こりました。趙胖は廉興邦に懇願して土地を返してもらいましたが、李光はまた土地を奪いました。怒った趙胖は李光の家を包囲して殺害しました。

廉興邦は趙胖が反乱を起こしたとして趙胖とその家族を捉えて拷問にかけました。

禹王はこれ以上、廉興邦らの横暴を許すことはできませんでした。

禹王は崔瑩(チェ・ヨン)と相談して趙胖を釈放、李成桂らに命令して軍を派遣して廉興邦、林堅味(イム・ギョンミ)らを捉えて投獄しました。廉興邦らが奪った土地は元の持ち主に返されました。

廉興邦(ヨム・フンバン)と林堅味(イム・ギョンミ)は家族や親戚とともに処刑されました。

TVドラマ

チョン・ドジョン KBS 2014年 演:キム・ミンサン
六龍が飛ぶ SBS 2015年 演:チョン・ノミン

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