崔瑀・江華島に遷都してモンゴル帝国に抵抗した武臣のリーダー

3.2 高麗の重臣や人々

崔瑀(チェ・ウ)は高麗の将軍。

武臣時代といわれる武官が政権を握っていた時代に活躍した人物です。武臣時代は王は飾り物で武臣たちが政治を動かしていました。

崔瑀(チェ・ウ)は父の死後、武臣達のトップに立ち高麗の政治を動かしました。江華島への遷都を強行してモンゴルとの戦争を指揮します。

しかし対モンゴル戦争中に死亡しました。

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崔瑀(チェ・ウ)とは

生年月日:1166年
没年月日:1249年
名前:崔瑀(チェ・ウ)→崔怡(チェ・イ)
父:崔忠献
母:宋清の娘
妻:
河東鄭氏
大氏婦人
鐵原崔氏
瑞連房

1166年。崔忠献の長男として生まれました。

当時は武臣が政権を握っていた時代。父・崔忠献は武臣のトップにたち政権を握っていました。しかし崔忠献の強引な政治に反発する人々もいました。

1211年。熙宗と王濬明たちが崔忠献から政権を奪還しようと計画。崔忠献の暗殺を計画しました。崔瑀は鄭叔瞻、金躍珍(キム・ヤクチン)とともに父を助け崔忠献の暗殺を防ぎ、熙宗を廃位させました。

1218年。契丹が高麗に侵入。モンゴルと協力して契丹を撃退しました。

武臣政権のトップに立つ

1219年。崔忠献が死亡。崔瑀(チェ・ウ)は父のあとを継ぎ、教定別監を務め政権を握りました。1219~1249年の30年間、教定別監を務めました。

教定別監になってからは崔怡(チェ・イ)と改名しました。

父・崔忠献が溜め込んでいた財産を王に捧げたり、民衆から取り上げた土地を持ち主に返して人々の支持を集めました。

一方で、政房(人事を担当する役所)を自宅に設置して人事権を王や官僚から奪いました。

1225年。モンゴルは高麗に朝貢を要求。高麗はモンゴルの使者を殺害しました。当時モンゴルは西夏との戦争中で高麗への報復は後回しになりました。

1229年。撃毬場を作り撃毬(馬に乗って行う遊牧民のスポーツ)を奨励しました。このとき、数百世帯を強制的に撤去して撃毬場を作ったので人々の恨みを買いました。でも王室は彼を処罰できませんでした。

モンゴルとの戦争が始まる

1231年。モンゴルのオゴディ・カアンは高麗に対して使者殺害を詰問。高麗の降伏・服従を要求しました。高麗は降伏を拒否。

モンゴル軍が高麗に侵攻。あっという間に首都・開城が陥落。将軍洪福源(ホン・ボグォン)が降伏しました。

崔瑀は軍を率いて安州や亀城でモンゴル軍と戦いました。金を使って山賊を雇ったり、僧兵にも呼びかけて抵抗を続けました。安州はモンゴル軍に攻め落とされましたが、亀城を守り抜きました。

ところがモンゴル軍は亀城を無視して一気に首都・開城を攻め落としました。首都を占領された高麗朝廷はモンゴルに降伏しました。

モンゴルは大量の貢物を要求。モンゴルは高麗統治のために統治官72人を配置しました。1231年。モンゴルは撤退しました。

朝廷を江華島に避難

1232年。崔瑀はモンゴル人の統治官を全員殺害。

国中の船を集めて国王と朝廷を江華島に移動させました。崔瑀は遊牧民のモンゴル兵は海の戦闘に不慣れと判断したからです。

平民には山や砦、島などに避難するよう支持しましたが、全ての平民が避難するのは不可能なことでした。

江華島に移動した崔瑀は島に砦を造り防御を固めました。島の対岸にも砦を造りました。

崔瑀の強引な方針に反感を持つ者たちが反乱を起こしますが鎮圧します。

モンゴルとの戦争が続く

モンゴルは2回目の侵攻を開始。崔瑀の考えどおりモンゴル軍は江華島を落とすことができません。しかもモンゴル軍を指揮していたサリクタイが流れ矢に当たって死亡。モンゴル軍は撤退しました。

モンゴル軍の撤退を知ると、崔瑀は北部に軍を派遣。裏切り者の洪福源(ホン・ボグォン)を討伐して家族を捉え。北部のいくつかの地域を奪回しました。

1234年。モンゴルは3回目の侵攻を開始。高麗軍の補給を断つため高麗各地の農地を焼きました。兵糧攻めにあった江華島政権は戦闘不能に陥りつつありました。

1238年。高麗はモンゴルと和平交渉を行います。高麗王室から人質をだすことになりました。高麗は王族の偽者を送りました。ところが偽者がばれてしまい、江華島からの撤退とさらなる貢物を要求されます。高麗は貴族の子弟を人質に出した以外は要求に応じませんでした。

高宗の命令でモンゴルとの戦争で焼けた大蔵経を復元。しかし個人の財産を没収して制作費用にあてるなど民衆の反感を買いました。

これが現在伝わる「高麗八萬大蔵経」です。室町時代には日本への輸出品にもなりました。

半島の人々が苦しんでいる間も崔瑀は江華島に逃れた王侯貴族らと贅沢をして人々の反感をかいます。

1247年。モンゴルの4回目の侵攻が始まります。高麗全土で略奪が行われました。

モンゴル皇帝グユク・カンがが死去したためモンゴル軍は一時撤退しました。

1249年。崔瑀はモンゴルとの戦争準備をしていましたが、急に死亡しました。病死といわれます。

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