朴訔(パク・ウン)は高麗末期から李氏朝鮮初期に活躍した政治家です。太宗(テジョン)と世宗(セジョン)に仕え太宗の即位に貢献。朝鮮王朝の基盤を築く上で重要な役割を果たしました。
この記事では彼の経歴や功績、姜尚仁案で見せた冷徹な判断を通して、朴訔が太宗時代の朝鮮にとってどのような存在だったのかを紹介します。
この記事で分かること
- 朴訔の出自と、高麗末期から朝鮮初期にかけての経歴
- 王子の乱で果たした役割と、太宗政権下での評価
- 姜尚仁案・沈温処分における朴訔の立場と判断
- 改革者ではなく体制維持を担った官僚としての姿
この記事のパク・ウンとは李氏朝鮮の政治家。 太宗・世宗時代に活躍し左議政となった朴訔です。燕山君時代の甲子士禍に連座して亡くなった朴誾(パク・ウン)とは別人です。
朴訔とはどんな人物?
基礎情報
- 姓: 朴(パク)
- 名前: 訔(ウン)
- 本貫: 潘南朴氏(パンナムパクシ)
- 字: 仰止(アンジ)
- 号: 釣隠(チョウン)潘渓(パンゲ)
- 生年月日: 1370年
- 没年月日: 1422年5月9日
- 没年: 53歳
- 当時の王:
- 高麗: 禑王、昌王、恭譲王
- 朝鮮: 太祖、定宗、太宗、世宗
- 当時の日本: 室町時代にあたります
朴訔の家族関係
- 父: 朴尚衷(パク・サンチュン、1332年~1375年)
- 母: 韓山李氏 (李穀の娘)
- 妻: 長興周氏 (周彦邦の娘)
- 子:3男4女(長男 朴葵、次男 朴薑、三男 朴萱 ほか)
朴訔(パク・ウン)の年表
- 1370年 朴訔が生まれる。
- 1388年 高麗の科挙(大科)に合格。
- 1392年 朝鮮建国のころ錦州知事などを務める。後に中央の要職に昇進。
- 1394年 李芳遠に忠誠を約束。
- 1398年 第一次王子の乱の局面で李芳遠側に立つ。
- 1400年 第二次王子の乱でも李芳遠を助ける。
- 1410年 王命で平壌城を修築。
- 1413年 死刑の再確認手続(三覆法)や、訊杖30回運用など刑罰運用に関わる。
- 1416年 47歳で右議政、同年に左議政。
- 1416年 姜尚仁案で沈温の処分を主張。
- 1421年 病で左議政を辞職。
- 1422年5月9日 死去
朴訔の生涯:高麗末期から朝鮮王朝初期の動乱を生き抜いた軌跡
朴訔の誕生と若き日の活躍
朴訔は1370年に名門の潘南朴氏に生まれました。
彼の父は高麗の判典校寺事という役職を務めた朴尚衷。
母は高麗末期の大学者である李穀(イゴク)の娘でした。
さらに彼は有名な詩人であり学者でもあった牧隠 李穡(モグン イセク)の甥にあたります。
1385年には高麗の文科試験に2位合格して官僚になります。高麗時代には開京少尹(ケギョンソユン)という役職を約4年間務めました。
太宗を支え即位に貢献
太宗との出会いと「王子の乱」での活躍
朴訔の人生を大きく変えたのは、李芳遠(イバンウォン)との出会いでした。まだ国王の世継ぎが決まっていなかったころから、朴訔は李芳遠の志を理解して交流を深めていました。
1398年。第一次王子の乱では当時知春州事だった朴訔は地方軍を動かして李芳遠を積極的に支持し、その勝利に大きく貢献しています。
さらに1400年の第二次王子の乱でも知刑曹事だった彼は李芳遠を助け、彼の国王即位に大きな役割を果たしました。
これらの功績が認められ、朴訔は佐命功臣(サミョンゴンシン)3等になり潘南君(パンナムグン)という位を与えられました。
太宗が国王になってからも多くの重要な役職を歴任。知錦州事(チクムジュサ)を約2年間務めるなど、朝鮮王朝初期の政務に深く関わっています。1412年には錦川君(クムチョングン)になりました。
左議政への昇進
朴訔は太宗の息子の世宗の時代にも重臣として活躍しました。1416年11月2日から1421年12月3日まで左議政(チャイジョン)を務めました。
でも彼は世宗だけに仕えたのではなく、上王にも仕え二人の仲介役のような役目もはたしていました。
政策と功績
彼が判義禁府事(パンウィグムブサ)という役職を兼ねたときには、罪人を尋問する際に使う訊杖(シンジャン)という杖の数を1回につき30本と定めるなど、法制度の整備にも尽力しました。
また全羅道観察使として明の使臣を適切に接待するなど、外交面でもその手腕を発揮しています。
姜尚仁案で沈温の処罰に関わる
1418年には、姜尚仁案(カンサンインアン)という事件が発生しました。『世宗実録』によると、この事件では朴訔は領議政の沈温(シムオン)を弾劾することに加わりました。
姜尚仁案への関与と沈温の排除
最初に問題になったのは姜尚仁(カンサンイン)という官僚です。姜尚仁と沈泟(沈温の弟)たちが王宮の警備の問題点や指揮権について話したところ、この件が問題となり義禁府が姜尚仁たちを逮捕。調査を始めました。そのため、この事件は姜尚仁案と呼ばれています。
沈温を黒幕にしたてあげる
義禁府では姜尚仁と関係者らの尋問・拷問が行われ、彼らの罪が確定。処刑になりました。
沈温は明に派遣中で取調べに立ち会っていません。それにもかかわらず、朴訔は沈温を事件の中心人物にしました。
このとき
- 沈温を呼び出して弁明させるべきか
- それとも対面なしで処罰を進めるか
が議論になりました。
朴訔は
と発言。
朴訔の意見を受けて沈温の不在を理由に処分を保留する案は退けられました。沈温は帰国後に官職を解かれ、流刑となり、その地で亡くなります。
この事件が原因で、沈温は亡くなる際に自分の子孫が反南朴氏と結婚することを禁じたとも言われています。
参考文献:『朝鮮王朝実録・世宗実録』即位年11月26日条
朴訔の思惑は?
以上は『朝鮮王朝実録』から分かる経緯です。朴訔が沈温の処分で中心的な役割を果たしていることは分かりますが、なぜ彼がそういう行動をとったのかは書かれていません。なのでここからは推測になりますが、史料の動きから分かるのは以下のことです。
当時、太宗は世宗に譲位しましたが軍事・外交・高位の人事権は手にしたまま。世宗はまだ若く経験は不十分です。朝鮮は建国してまだ26年。政治的にも軍事的にも正統性も不安定。王が世代交代するすると影響力は弱くなり、外戚や臣下が強くなります。そこで太宗は自分が影響力のある間に王位継承を進め、強い王権を維持したまま次の世代に引き継がせようとしました。
ここで沈温に弁明の機会を与えてしまうと、沈温が関わってなかった。沈温の関わりが証明できず処分する理由が薄れるかも知れません。それでは外戚を排除したい太宗としては困ります。
そこで朴訔は太宗の意向を受けて動いていたと考えるのが自然です。
結果として沈温は排除され、世宗の時代になっても朴訔たち太宗に仕えた臣下たちが王を支える体制は続くことになるのです。
朴訔の最期
長年にわたる激務と高齢のため、朴訔は1421年に病により左議政の職を辞しました。彼の功績は、李氏朝鮮の行政、軍事、外交といった多方面にわたる基盤を築き上げたと言えるでしょう。
その死と与えられた諡号「平度」の意味
朴訔は1422年5月9日、53歳でこの世を去りました。彼の死後、朝廷からすぐに平度(ピョンド)という諡号(しごう)が贈られました。
この諡号の意味は
平:国家の法と官僚規律を崩さずに秩序を安定させた。
度:善悪を感情ではなく儒教的規範や国家の原理で判断できる能力。
という意味を持っています。
人間的に公平だとか正義の人だったというのではなく、王朝側から見た時に体制維持に貢献した人物だったという評価です。
現代に残る朴訔の墓
彼の墓所は、当初は京畿道楊州(ヤンジュ)にありましたが、その後何度か移転され、現在は京畿道坡州(パジュ)市文山邑(ムンサンウプ)堂洞(タンドン)に位置しています。この墓所は坡州市の郷土遺跡第25号に指定され現在も大切に守られています。
まとめ:激動の時代を支えた実務家、朴訔(パク・ウン)
朴訔(パク・ウン)は高麗の滅亡から朝鮮王朝の建国、そして太宗・世宗へと続く激動の時代を生き抜いた実務派の官僚です。
彼は早くから李芳遠(イ・バンウォン)と手を組みました。「王子の乱」では軍や行政組織を動かして勝利に貢献。その功績が認められ重心となり、太宗を支えました。世宗の代になると、左議政という最高位の役職に就きました。
当時は譲位した太宗と現役の世宗が共に政治に関わる特殊な時期でしたが、彼はその中でうまく政務の調整役を果たしたのです。彼は改革よりも秩序の維持に務めた人といえます。法律の運用や明との外交で見せた振る舞いは、常に既存のルールを重んじるものでした。姜尚仁や沈温に対する厳しい処分を急いだのも、その考えの表れと言えるでしょう。
個人の事情や正義を追求するよりも、国家や王権の維持を最優先する冷徹さを持ち合わせていました。
朴訔は有能な政治家であると同時に容赦のない冷酷さを備えた人物といえるのではないでしょうか。
ドラマの朴訔(パク・ウン)
朴訔はその波乱に満ちた生涯と李氏朝鮮初期の重要な局面に深く関わったことから多くの歴史ドラマで描かれています。
- 龍の涙 KBS、1996年 演:イム・ビョンギ
- 大王世宗 KBS、2008年 演:パク・ヨンジ
- 根の深い木 SBS、2011年 演:チェ・ジョンウ
- 蒋英実 KBS、2016年 演:パク・スンギュ
- 太宗 イ・バンウォン KBS、2021年 演:イ・ヒョンギュン

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