↑左端の人がカン・ジョ(康兆)
千秋太后で千秋太后に想いをよせつつ仕える武将として描かれたカン・ジョ(康兆)は実在の人物です。
ドラマでは渤海の子孫という設定でしたが、高麗の名門の家柄です。一族には後高句麗や高麗の王妃がいました。
ドラマでは千秋太后に従いつつもキム・チヤン(金致陽)と対立します。現実にもカン・ジョ(康兆)は権力を手にしたキム・チヤン(金致陽)を殺害しました。そればかりでなくクーデターまで起こしたのです。
史実のカン・ジョ(康兆)はどんな人物だったのか紹介します。
カン・ジョ(康兆)の史実
いつの時代の人?
生年月日:964年
没年月日:1010年
名前:カン・ジョ(康兆)、契丹の資料では康肇
父:康泰周
彼が生きたのは964年~1010年。主に高麗王朝の5代景宗~8代顕宗の時代に生きた人です。
日本では平安時代になります。
おいたち
黄海の豪族・康泰周の息子として生まれました。高麗の初代国王・太祖王建の22番目の妻の家系になります。一族からは後高句麗の王・弓裔の正室もいました。康氏は黄州(朝鮮半島北部)でも有力な豪族でした。カン・ジョは高麗王朝に仕えましたがクーデターを起こしたことで系図から名前が消されてしまいました。
991年。康兆(カン・ジョ)は武官になります。
997年。高麗第6代王成宗が亡くなり、穆宗が即位します。このとき穆宗は18歳だったので母の千秋太后が摂政になりました。千秋太后の愛人・金致陽が呼び戻され政治を行いました。
康兆の政変
金致陽は勝手な政治を行い、千秋太后との間に産まれた子供を次の王にしようとしました。穆宗が病気で寝込んでいるとき、金致陽の計画を知ります。穆宗は寺に預けられている大良院君を呼び戻しました。康兆に大良院君を守らせました。
康兆は金致陽とその子を殺害し、千秋太后を追放します。穆宗に大良院君へ譲位するように迫りました。穆宗を幽閉先に送る途中で部下に殺害させました。
1009年。顕宗が即位しました。康兆は吏部尙書參知政事という要職について一番の実力者になりました。康兆は王室の腐敗を一掃しようと組織を改革しました。
康兆の最後
1010年。穆宗の時代、高麗は遼(契丹)とは良好な関係を維持していました。遼の皇帝・聖宗は康兆が謀反を起こしたことを口実に40万の大軍で高麗に攻めてきました。
康兆は軍を率いて戦いましたが遼軍に敗れて捕虜になりました。聖宗は康兆に対して家臣になるように言いましたが、康兆は拒否しました。このとき部下の李鉉雲(イ・ヒョンウン)は遼に寝返りました。康兆は李鉉雲に対して高麗を裏切るのかと怒ったといいます。
康兆は最後まで遼に寝返ることを断り処刑されました。
康兆あるいは弟の子孫ともいわれる康之淵が25代忠烈王のときに功績をあげて康家を再興しています。
反逆者?それとも王室の立て直しを願う忠臣?
穆宗を廃位させて殺害したことから高麗史では反逆者として記録されています。彼の名前も系図からは削除されていました。
金致陽の横暴を止めようとしたのかもしれません。でも、穆宗に無理やり位を譲らせ殺害してしまったはやりすぎでした。
穆宗は顕宗を後継者にしたのです。いずれは顕宗の時代になったはずですよね。でも康兆はそれが待てなかったのかもしれません。
もしかすると金致陽と千秋太后による皇室の混乱を招いたのが穆宗だという意識があったのかもしれません。乱れた王室を一刻も早く立て直したいという焦りもあったかもしれませんね。
テレビドラマ
千秋太后 KBS、2009年 演:チェ・ジェソン
朝鮮、韓国では康兆といえば反逆者のイメージがありました。ドラマ「千秋太后」では、康兆は反逆者とは言い切れないのではないか。という新しい解釈で話題になりました。
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