安慶緒:父・安禄山を裏切らざるをえなかった不遇の皇帝

2019年2月5日

(出典:楽天市場)

安慶緒(あん けいしょ)は唐で安史の乱を起こした安禄山の次男です。

麗王別姫にもヒロイン沈珍珠に想いをよせる人物として登場します。

父・安禄山が唐の玄宗皇帝に対して反乱を起こし、燕(または大燕)という王朝をつくりました。この事件を安史の乱といいます。

唐に対して反乱を起こした安禄山は自分で皇帝を名乗り国の名前を「燕」にしました。息子の安慶緒も燕の2代目皇帝になります。しかしすんなり父のあとを継げたわけではありません。父に対して反乱を起こして地位を奪ったのでした。しかも自分自身も家臣の反乱にあって命を落とします。たった2年の不遇な皇帝でした。

史実の安慶緒はどんな人物だったのか紹介します。

安慶緒の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:759年

通称:安慶緒(あん けいしょ)
称号:哀皇帝(燕皇帝)
父:安禄山
母:康夫人
兄:安慶宗

彼は燕の2代皇帝です

日本では奈良時代になります。
孝謙天皇とほぼ同世代。同じ時代に生きた人物は吉備真備、阿倍仲麻呂です。

おいたち

安慶緒が産まれた年はわかっていません。

父は安禄山。ソグド人と突厥人が混血した遊牧民族でした。母はソグド人の女性康氏。

ソグド人集団を率いる安禄山は勇敢で多くの手柄をたてて唐で出世しました。

人に取り入るのが上手かった安禄山と違い、安慶緒は口下手でした。むしろ言葉遣いは乱雑だったといいます。性格は気弱なところがありましたが、乗馬と弓矢が得意でした。

747年。父・安禄山が御史大夫(副丞相)になりました。母・康氏は段氏とともに国夫人になりました。

751年。安慶緒は鴻臚卿に任命されました。

同じ年。安禄山の舞台は契丹兵と戦いました。長雨で兵士が疲れていたところをはさみうちにあって大苦戦しました。安禄山は敵のしかけた落とし穴にはまって捕まりそうになりましたが、安慶緒が救出し平盧城まで逃げ延びることができました。

父・安禄山は唐では異民族でした。しかし玄宗皇帝や楊貴妃に気に入られていました。しかし、寵愛される安禄山に対して不満をもつ唐の人々は多くいました。とくに楊国忠たち楊一族との対立は深刻でした。

安史の乱

755年。父・安禄山は反乱を起こし洛陽を占領しました。安慶緒も父のそばにいて共に戦いました。

しかし反乱を知った唐の玄宗は、唐にいた兄の安慶宗と母の康夫人を処刑してしまいました。

この知らせを聞いた安禄山は悲しみ、捕虜にした唐の兵士たちを処刑しました。

このとき燕軍は沈珍珠を捕まえたはずです。もしかすると安慶緒と沈珍珠が出会った可能性はあります。

安禄山は自ら雄武皇帝を名乗ります。新しい王朝をつくり国号を「燕」にしました。長い中国の歴史ではいくつも「燕」という国があります。河北の地域にできる国や遊牧民が作った国は「燕」と名乗ることがよくありました。安禄山が作った燕もそのひとつです。

父・ 光烈帝(安禄山)から皇太子に任命されました。

その後、光烈帝は病気になって視力を失い人間不信になります。光烈帝の性格は残酷になりました。さらに光烈帝は寵愛していた段氏が産んだ安慶恩を皇太子にしようとしました。

側近の厳荘からその話を聞かされ安慶緒はショックを受けました。安慶緒父を信じられなくなります。さらに異母弟の安慶恩が皇帝になったら自分は殺されると不安になりました。

皇帝になる

そこで安慶緒は側近の厳荘や宦官の李豬児とともに光烈帝を暗殺。自分が皇帝になりました。

表向きは光烈帝は重病になったので譲位して上皇帝になったことにしました。その後、死亡したことを発表して「光烈皇帝」の諱をおくり喪に服しました。

しかし安慶緒は人望がありませんでした。家臣たちの心は離れていきます。

757年10月。唐の粛宗が派遣した軍によって長安と首都の洛陽が奪われてしまいます。

安慶緒は黄河を渡って鄴城(現在の河南省安陽市)に逃げました。

759年。武将・史思明の働きで唐の軍隊を撃退しました。ところが安慶緒は史思明に裏切られ殺されてしまいます。安慶緒が皇帝と名乗ることができたのはたった2年でした。

その後、史思明があとを継いで大燕皇帝と名乗りました。しかし763年に唐によって滅ぼされます。安一族の作った燕は短い間だけ存在した国でした。

4.1 唐

Posted by Fumiya


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