安慶緒:父・安禄山に疎まれ 裏切った不遇の皇帝

4 隋・唐

安慶緒(あん けいしょ)は唐で安史の乱を起こした安禄山の次男です。

麗王別姫にもヒロイン沈珍珠に想いをよせる人物として登場します。

父・安禄山が唐の玄宗皇帝に対して反乱を起こし、燕(または大燕)という王朝をつくりました。この事件を安史の乱といいます。

反乱を起こした安禄山は自分で皇帝を名乗り国の名前を「燕」にしました。息子の安慶緒も燕の2代目皇帝になります。

しかしすんなり父のあとを継げたわけではありません。父に対して反乱を起こして地位を奪ったのでした。しかも自分自身も家臣の反乱にあって命を落とします。たった2年の不遇な皇帝でした。

史実の安慶緒はどんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

安慶緒の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:759年

通称:安慶緒(あん けいしょ)
別名:安仁執
称号:哀皇帝(燕皇帝)
父:安禄山
母:康夫人
兄:安慶宗

彼は燕の2代皇帝です

日本では奈良時代になります。
孝謙天皇とほぼ同世代。同じ時代に生きた人物は吉備真備です。

安慶緒のおいたち

安慶緒が産まれた年はわかっていません。安禄山の次男でした。

父は安禄山。ソグド人と突厥人が混血した遊牧民族でした。

母はソグド人の女性・康氏。安禄山の一人目の妻です。

ソグド人とはソグディアナ(現在のウズベキスタン)で暮らすイラン系の民族。鼻が高くほりが深く髭が濃い。中東風の顔立ちが特徴です。ソグド人はシルクロードのオアシス都市で暮らしていましたが、商人になる人も多かったようです。

「安」や「康」は漢人(漢民族)にはない姓で、ソグド人が中国風の名前を名乗るときの姓です。
「安」はオアシス都市のブハラ出身。漢人は「ブハラ」を「安国」と呼んでいたから。
「康」はサマルカンド出身者が名乗ることが多かったようです。同じく「サマルカンド」は「康国」です。

安慶緒は両親がソグド人なのでイラン系の顔立ちをしていたはずです。ドラマ「麗王別姫」のような中国人の顔ではなかったでしょう(中国のドラマなので仕方ありませんが)。

ソグド人集団を率いる安禄山は勇敢で多くの手柄をたてて唐で出世しました。

人に取り入るのが上手かった安禄山と違い、安慶緒は口下手でした。むしろ言葉遣いは乱雑だったといいます。性格は気弱なところがありましたが、乗馬と弓矢が得意でした。父の安禄山からは可愛がられていたといいます。

747年。父・安禄山が御史大夫(副丞相)になりました。母・康氏は段氏とともに国夫人になりました。

751年。安慶緒は鴻臚卿に任命されました。廣陽太守も兼任しました。

安慶緒の元の名は「仁執」でした。唐の玄宗から「慶緒」の名をもらいました。

同じ年。安禄山の部隊は契丹兵と戦いました。長雨で兵士が疲れていたところをはさみうちにあって大苦戦しました。安禄山は敵のしかけた落とし穴にはまって捕まりそうになりましたが、安慶緒が救出し平盧城まで逃げ延びることができました。

父・安禄山は唐では異民族でしたが玄宗皇帝や楊貴妃に気に入られていました。この頃の長安は様々な民族が訪れる国際都市でした。

でも寵愛される安禄山に対して不満をもつ唐の人々は多くいました。とくに楊国忠たち楊一族との対立は深刻でした。

父・安禄山が反乱を起こす(安史の乱)

755年。父・安禄山は反乱を起こし洛陽を占領しました。安慶緒も父のそばにいて共に戦いました。

反乱を知った唐の玄宗は唐にいた兄の安慶宗と母の康夫人を処刑してしまいました。

この知らせを聞いた安禄山は悲しみ、捕虜にした唐の兵士たちを処刑しました。

このとき燕軍は沈珍珠を捕まえたはずです。もしかすると安慶緒と沈珍珠が出会った可能性はあります。

安禄山は自ら雄武皇帝を名乗ります。新しい王朝をつくり国号を「燕」にしました。長い中国の歴史ではいくつも「燕」という国があります。河北の地域にできる国や遊牧民が作った国は「燕」と名乗ることがよくありました。安禄山が作った燕もそのひとつです。

父・ 光烈帝(安禄山)から皇太子に任命されました。

父・安禄山を暗殺

その後、光烈帝(安禄山)は病気になって視力を失い人間不信になります。光烈帝の性格は残酷になりました。さらに光烈帝は寵愛していた段氏が産んだ安慶恩を皇太子にしようとしました。

側近の厳荘からその話を聞かされ安慶緒はショックを受けました。

安慶緒は父を信じられなくなります。さらに異母弟の安慶恩が皇帝になったら自分は殺されると不安になりました。

そこで安慶緒は側近の厳荘や宦官の李豬児とともに光烈帝を暗殺。自分が皇帝になりました。

表向きは光烈帝は重病になったので譲位して上皇帝になったことにしました。その後、死亡したことを発表して「光烈皇帝」の諱をおくり喪に服しました。

安慶緒は安碌山の盟友だった史思明に安姓と「郡王」の地位を与え幽州の守りを任せていました。

しかし安慶緒は人望がありませんでした。家臣たちの心は離れていきます。

757年10月。唐の粛宗は、息子の広平王・李俶を討伐軍として派遣。

安慶緒の軍は広平王の軍に敗れて長安と洛陽を奪われてしまいます。

都を追われて逃亡生活

安慶緒は黄河を渡って鄴城(現在の河南省安陽市)に逃げました。安禄山の時代から従っていた武将たちは安慶緒を見限って幽州やモンゴルに行ってしまいます。

幽州には史思明がいました。

758年9月。唐は安慶緒の討伐軍を派遣してきました。

759年正月。史思明は安慶緒を助けようと援軍を出しました。史思明の働きで唐の軍隊を撃退しました。

ところが安慶緒は史思明に裏切られ殺されてしまいます。安慶緒が皇帝と名乗ることができたのはたった2年でした。

その後、史思明があとを継いで大燕皇帝と名乗りました。しかし763年に唐によって滅ぼされます。

安一族の作った燕は短い間だけ存在した国でした。

TVドラマの安慶緒

麗王別姫 2017年、中国 演:茅子俊(マオ・ズージュン)
 ドラマでは沈珍珠の幼馴染。沈珍珠のことを想っていますが、沈珍珠は近所のお兄さんとしかみていません。父・安禄山の反乱後、父をとるか恋をとるかで葛藤することになりますが。

 中国ドラマによくある報われないお兄さん的存在。

 史実では沈珍珠と安慶緒が幼い頃から親しかったという記録はありません。

 でも。安慶緒の反乱後。宮殿に取り残されていた沈珍珠を安禄山と安慶緒がとりあった可能性は考えられます。

(出典:楽天市場)

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました