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上陽賦:馬子律(ばしりつ) は実在する?モデル 司馬元顕 とは?

上陽賦(じょうようぶ) 2 ドラマ人物

馬子律(ば・しりつ)は中国ドラマ「上陽賦」に登場する人物。

大成国の皇帝 馬曜の次男です。

馬子律のモデルになった人物は実在するのでしょうか?

います。それが東普の皇族 司馬元顕(しば・げんけん)です。

ドラマに登場する謇寧王 馬睢とそのモデルになった司馬道子を紹介します。

 

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ドラマ「上陽賦」の馬子律

演:蒲巴甲(プー・バージア)
声:竹内想

第二皇子。母は既に他界した側室。母の身分が低かったので皇帝からはあまり可愛がられていません。寡黙で幼い頃は病弱でした。桓宓を愛しています。最初は皇帝の座には興味はありませんでしたが桓宓が王夙と結婚すると王一族に敵意を持つようになりました。自分が皇帝になって王氏を根絶やしにして桓宓を手に入れようとします。

皇帝になるために裏で画策。やがて皇帝に謀反を起こしますが。蕭綦たちの働きで失敗。

実は皇帝の息子ではなく謇寧王 馬睢の息子。でも皇帝はその事実を知りません。

 

 

馬子律のモデル 司馬元顕

馬子律(ば・しりつ)のモデルになったのは司馬元顕(しば・げんけん)です。

4世紀ごろの古代中国の東晋の皇族。
司馬元顕(しば・げんけん)は382年に生まれました。

東晋の第9代皇帝孝武帝の甥。
孝武帝 司馬曜は上陽賦の皇帝・馬曜(ば・よう)のモデルです。

孝武帝の弟・司馬道子(しば・どうし)の息子。
東晋の第8代皇帝 簡文帝 司馬昱(しば・いく)の第7皇子です。
司馬道子は謇寧王 馬睢(ば・すい)のモデルです。

16歳で侍中になり朝廷に仕えました。
当時の皇帝 、安帝 司馬徳宗(しば・とくそう)は知的障害者だったと言われ自分では政治ができませんでした。そのため司馬道子が摂政になり政治を行っていました。司馬道子は好き勝手に政治を行い横暴がひどく国庫を私物化、自分の贅沢のために使っていました。

ところが王国宝(おう・こくほう)は同族の王恭(おう・きょう)が持つ兵権を奪おうとしました。王恭は怒って挙兵しました。王恭は王国宝の処刑を要求しました。

司馬元顕は父の司馬道子に王恭を討伐するように言いました。しかし司馬道子は王恭たちの要求をのんで王国宝を処刑しました。

その後。司馬道子は司馬元顕を征虜将軍に任命しました。

寝返り工作で反乱軍を壊滅させる

398年。王恭と殷仲堪は再び挙兵しました。司馬元顕は司馬道子に攻めるように言いましたが、司馬道子はどうすればいいかわからなかったので酒に溺れる日々を送り、司馬元顕に反乱鎮圧を任せました。

司馬元顕は征討都督になり、王珣、謝琰たちを率いて王恭たちと戦いました。司馬道子の腹心・司馬尚之も討伐軍に参加しました。

王恭の配下の劉牢之は王恭に不満がありました。司馬元顕はそれを知っていたので、王恭を倒せば劉牢之に王恭が持っていた地位を与えると約束、寝返らせました。劉牢之は王恭を殺害しました。

また、殷仲堪の配下の桓玄にも西府軍総帥を約束して寝返らせ、殷仲堪を自害に追い込みました。

こうして司馬元顕は反乱を鎮圧しました。

父から政権を奪う

399年。司馬道子は病気を患い、酒を飲んで堕落した日々をおくっていました。司馬元顕は父がすっかり人望を失っていることを知り、皇帝に司馬元顕の司徒と揚州刺史の職を解任するよう進言。司馬道子の意見は認められました。

それを知った司馬道子は怒りましたがもうどうにもなりません。

司馬元顕は若かったので父がもっていた役職をそのまま引き継ぐのは避けて、琅邪王 司馬徳文に司徒の役職についてもらいました。

また司馬元顕は廬江太守の張法順を信頼して参謀として招きました。そして桓謙たち有力門閥の子弟を集めて自分の派閥を作りました。

司馬元顕は兵力を増やすため、かつて官奴にされた者たちを首都・建康に移し門閥の支配下におきました。ところがこのやり方は他の門閥や士族たちから不満の声が出ました。

司馬元顕は名実ともに権力を握りった司馬元顕は横暴になり私腹を肥やします。戦乱で朝廷の財政は逼迫しているのに司馬元顕は逆に財を溜め込んでいました。

でも司馬元顕に対抗できる者はなく、大臣や役人たちは司馬元顕に媚びへつらっています。

司馬親子の対立

399年。五斗米道の孫恩が反乱を起こしました。

司馬元顕は劉牢之を派遣。孫恩の反乱は一時収まりました。

吏部尚書の車胤は司馬道子に司馬元顕の横暴を抑えるように言いました。それを知った、司馬元顕は司馬道子に会い、車胤とどんなやり取りをしたのか聞きましたが。隠居に追い込まれて不満の司馬道子は司馬元顕に怒り、親子は喧嘩になってしまいます。

司馬元顕は車胤が親子の仲を裂こうとしていると考えて人を派遣して車胤を脅迫。恐怖に車胤は耐えられなくなくなって自害してしまいます。

桓玄の反乱で討たれる

401年。再び孫恩が挙兵。

劉牢之を派遣して孫恩を撤退させました。

荊州刺史の桓玄も孫恩を討ちに出陣しました。ところが桓玄は孫恩が撤退後も軍を引こうとしません。司馬元顕は撤退するように命令しましたが、命令を聞きません。

そこで劉牢之に桓玄討伐を命令しますが劉牢之は桓玄を討つのはためらいます。部下の張法順は劉牢之も裏切るかもしれないので殺したほうがいいと言いましたが、司馬元顕は劉牢之を失えば桓玄には勝てなくなると思い拒否しました。

そうしている間に桓玄の軍は都に迫りました。

討伐に向かわせた劉牢之は桓玄は桓玄に寝返ってしまいます。

402年。桓玄は首都・建康を占領。司馬元顕は桓玄に捕らえられて処刑されました。司馬道子も捕まり、安成郡に移送される途中で暗殺されました。

その後、劉裕(りゅう・ゆう)が桓玄を討ち、皇帝を廃して最終的に劉宋を建国しました。この劉裕が「上陽賦」の蕭綦(しゅく・き)のモデルです。

 

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