趙日新(チョイルシン)は高麗時代の重臣。恭愍王の側近として出世した人物でした。人事介入と強引に権力を得ようとして孤立。反乱を起こしたものの失敗。最後は恭愍王によって処刑されました。
この記事では趙日新の生涯と後世に与えた影響。ドラマ「シンイ-信義-」での描かれ方を紹介します。
この記事で分かること
- 恭愍王の側近から反乱者へ転落した経緯
- 政房復活要求と人事介入が招いた孤立
- 趙日新の乱が高麗王朝に与えた政治的影響
- ドラマ「シンイ-信義-」での描かれ方。
趙日新(チョ イルシン)とは
プロフィール
- 名前:趙日新(チョ・イルシン)
- 別名:趙興門(チョ・フンムン)
- 氏族:平壌趙氏
- 祖父:趙仁規(チョ・インギュ。忠宣王代の功臣)
- 父:趙瑋(チョ・ウィ。高官)
- 母:不明
- 生年:踏め
- 死亡:1352年(恭愍王1年)
趙日新の生い立ちとエリート家系
趙日新は生年は不明ですが、高麗後期の名門 平壌趙氏(ピョンヤンチョシ)の家に生まれました。
祖父の趙仁規は忠宣王の治世に功臣として活躍、中央政界で確かな地位を築いた人物でした。父の趙瑋も高官として仕え、王朝の官僚機構の中枢で実務を担っています。
この一族は地方の豪族というより、王朝の中央と結びついてきた一族と言えます。そうした環境の中で趙日新は若い頃から宮廷政治の仕組みを理解し官職に就くための人脈と実績を備えていました。
趙日新の行動が過激に見えるのは確かですが、もともと王権や官僚制度から切り離された存在だったわけではなく、むしろ内部にいた人物だったのです。
恭愍王への随行と出世
恭愍王は即位前に元で宿衛生活(人質)を送っていました。高麗の王族は人質として元で暮らす事が多く、若い頃の恭愍王も11歳で元に送られ暮らしていたのです。
趙日新は恭愍王の宿衛期間に随行した人物の一人です。つまり王が不利な立場に置かれていた時期を最も近い距離で支えた側近でした。
1351年に恭愍王が即位して帰国すると趙日新も一緒に高麗に戻りました。
趙日新は元での随行経験が強く評価されます。趙日新は功臣として扱われて官職を重ね、宮廷内で発言力を急速に高めていきました。
当時の元の朝廷
恭愍王が即位した直後の朝廷は、奇一族ら親元派が力を持っていた時代でした。
その中で趙日新は反元派の立場をとり、王に近い立場と随行の実績をもとに、自分が新体制の中心に立てると判断。
王を支えることより朝廷内で自分の地位を上げることを優先するようになっていきます。
人事介入と政房復活要求
朝廷内で発言力が増した趙日新は官職の任命に強く口を出すようになりました。
彼が特に力を入れたのが「政房(チョンバン)」の復活要求です。政房は本来、官吏の人事を司る役所ですが、以前の政争の結果として一時廃止されていました。
趙日新は自分の影響力を拡大するため、この政房を復活させて自分が人事権を握ろうとします。
実際に王に強く働きかけ、宮廷の人事や昇進を自分の意向で動かそうとしました。
ところが、この行動は他の重臣や監察機関から強い反発を招きます。人事を私物化する行為、朝廷の秩序や公平性を脅かす行為だと受け止められ、趙日新に対する弾劾が相次ぐようになりました。
趙日新はそれでも態度を変えず、ますます強引な方法で自分の地位を守ろうとしたため次第に孤立していきます。
親元派・奇氏との対立
この時期の高麗朝廷には、元(モンゴル帝国)の後ろ盾を持つ親元派の有力者が多く残っていました。中でも奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)を中心とした奇氏一族が朝廷内で強い影響力を持っていました。
奇氏一族は元との繋がりを活かして高麗国内で土地や財産を拡大、人事や政治にも強く介入していました。そのため元が衰退傾向にあった当時は反元派や新体制を望む人々からは反発を受けていました。
趙日新は、こうした不利な状況を覆すため。親元派の奇氏一族を排除して政敵を倒し権力を一気に握ろうとします。
しかし彼自身は弾劾を受けているので、強力者は限られますし政治的な根回しをする余裕はありません。そこで親元派を武力や強硬手段で一気に片付けようと考えました。
趙日新の乱
1352年9月。趙日新はついに武力行使に踏み切りました。
まず趙日新は、奇轍(キ・チョル)や高龍普(コ・ヨンボ)など親元派の中核人物を標的に、夜間の襲撃を計画します。実際に殺害に成功したのは奇轅のみで、他の主要人物は逃がしてしまいました。
計画は想定通りには進まず、不完全な結果となります。
すると趙日新は王の居所である離宮(星入洞)を包囲。宿直の高官を殺害します。そして王の印(王印)を強引に開かせ、自分を右政丞(ウジョンソン)、仲間を左政丞(チャジョンソン)など高官に任命させました。
この時点で趙日新は政敵排除を超えて、王への反乱となりました。
仲間の粛清と孤立
しかし政変は思い通りには進みません。非難が趙日新自身に集まるようになります。
趙日新は責任逃れと口封じのため、共謀者の崔和尙を自らの手で斬り捨てました。さらに張升亮ら8〜9名を処刑して首を晒し、鄭天起を投獄。次々と仲間を切り捨てていきます。
責任を他人に押し付けて自分の罪を軽くしようとしましたが、この粛清によって朝廷内での支持は完全に失われてしまいました。
最後
恭愍王は側近たちの進言を受けて、趙日新の討伐を決断。
翌日、金添壽に命じて趙日新を捕らえさせ、都の門外で斬首しました。
反乱の発端から処刑までの流れは非常に速く、趙日新の乱は短期間で幕を閉じることになります。
趙日新の評価
趙日新(チョ・イルシン)の敵は奇氏ら親元派でした。その点では恭愍王と共通しています。元で恭愍王と苦楽を共にして功臣とされ。恭愍王の即位後は彼を支える立場にいました。
でも結局は反乱者として処刑されてしまいます。彼は何を間違ったのでしょうか?
王との近さを私欲のためにだけ使った
趙日新は恭愍王がまだ元にいた頃からそばで仕えていた側近でした。王が即位したばかりの宮廷でも最も近い臣下です。この近さは最強の武器になります。
彼は側近という立場を利用して役人の任命に口を出し、自分たちに都合の良い組織を作ろうと動きました。狙いは国の改善ではなく、自分の息がかかった人間を要職に並べることだったのです。
王の信頼を自分の地位と勢力拡大のために使ったのです。
追い詰められると暴力に訴える
彼は反対派から批判を浴びて立場が危うくなると、政治の場での論争ではなく、襲撃や脅迫という暴力を使いました。
王の住まいを包囲して力ずくで官職を認めさせたのは、改革ではなく反乱です。自分の失脚を防ぐために、強引に人事を決たかった。そのために王の承認が必要だった、という自分勝手な都合なのです。
最後は味方を切り捨てた
さらにそれもうまくいかないと分かると、彼は一緒に計画を立てた仲間たちを処刑、自分だけ責任を逃れようとしました。こうした身勝手な振る舞いでは当然部下も役人も付いてきません。彼の天下が長続きしなかったのは当然です。最後は彼に味方する者はなく、王の命令でやすやすと捕らえられてしまったのです。
後の高麗に与えた影響
趙日新が引き起こした騒動はその後の歴史に意外な影響を与えました。
王の不信感
この事件以来、恭愍王は「最も近くにいる側近こそ自分を脅かす存在になるかもしれない」という疑念を抱くようになります。事実、この後の高麗では王と側近勢力が激しく衝突する事件が繰り返されました。
武臣たちの台頭
趙日新の反乱を鎮圧する過程で、軍人の崔瑩(チェ・ヨン)が頭角を現します。
この事件は文官同士の争いを超えて、武臣が政治の表舞台に立つきっかけとなりました。
恭愍王に教訓を残す
趙日新は親元派の勢力を潰そうとしました。それは恭愍王と目的は同じです。でもやり方があまりに乱暴で自滅しました。恭愍王はこの失敗を教訓に、より慎重に計画を立てて政敵を抹殺するようになります。そして奇氏と親元派の粛清に成功します。
ある意味反面教師となったのかも知れません。
ドラマ「シンイ-信義-」のチョ・イルシン
- シンイ-信義- 2012年、SBS 演:イ・ビョンジュン
チョ・イルシンはドラマ『シンイ-信義-』に登場しています。
ドラマの中でも史実同様に恭愍王とともに元で暮らし、高麗に戻ってからも側近として仕えます。ところが王個人への忠誠よりも、自分の地位と生存を優先して動く人物として描かれます。
状況を見て、有利だと判断した側に素早く乗り換える人物です。そのため恭愍王からも最も信頼できる仲間とは思われていないように描かれます。
ドラマ中盤で徳興君が王位を狙って動きだすと、彼に味方して自分の官位や安全を確保しようとします。判断は早いものの、先を読む力は弱く相手に利用されやすいところもあります。
しかし徳興君が劣勢になると、チョ・イルシンが切り捨てられ、謀反の責任を負わされる形で排除されます。
史実では徳興君はこの時点では出てこず。チョ・イルシンが主導して反乱を起こしましたが。ドラマでは自分で主導して権力を狙いに行くのではなく常に利用される人物として描かれます。
関連記事

コメント