恵嬪楊氏(ヘビンヤン氏)は朝鮮4代国王・世宗の側室。
6代国王・端宗の乳母となり育てた人物です。
首陽大君が権力を持つと端宗を守ろうとしましたが、首陽大君派によって処刑されてしまいます。
史実の恵嬪楊氏(ヘビンヤン氏)はどんな人物だったのか紹介します。
恵嬪楊氏(ヘビンヤン氏)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1455年11月9
名前:淸州楊氏・名は不明
称号:恵嬪
父:楊景(ヤン・ギョン)
母:李氏
夫:世宗
子供
漢南君(ハンナングン)
寿春君(スチュングン)
永豊君(ヨンプングン)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の4代世宗の側室。7代世祖時代の時代まで生きました。
日本では室町時代になります。
おいたち
県監の楊景(ヤン・ギョン)と李氏の間に一人娘として産まれました。
宮廷に入り女官なりました。
持病を持ち病弱な世子の面倒をみていたところ、世宗の目に止まり側室になりました。
世子時代の文宗と世子嬪・権氏(顕徳王后)との間に長男・弘暐(ホンウィ・後の端宗)が産まれました。
しかし体の弱かった権氏はまもなく死亡。世宗は恵嬪楊氏はをホンウィの乳母にして、ホンウィと敬恵公主の養育を任すことにしました。
恵嬪楊氏は世宗の申し出に喜んで応えました。産まれたばかりのホンウィを大切に育てました。ホンウィも恵嬪楊氏になついていました。
世宗の死後。宮殿を出て尼になりました。
1452年5月。世宗の跡を継いだ文宗が2年で死亡しました。
12歳で端宗が即位すると、恵嬪楊氏は宮殿に戻ってきて端宗の補佐をしました。
文宗時代は王妃がいなかったので内婦府を仕切っていたのは貴人洪氏でした。重臣たちは恵嬪楊氏が力をつけることに危機感を持ちました。
1452年8月。貴人洪氏が肅嬪に昇格させられ、恵嬪のかわりに端宗を補佐しました。
肅嬪に役目を奪われた恵嬪楊氏は端宗を助けることはできなくなりました。恵嬪楊氏は首陽大君のせいだと考え恨みます。
1453年11月。首陽大君がクーデターを起こしてキム・ジョンソら重臣を殺害。この事件を癸酉靖難(ケユジョンナン)といいます。
朝廷の権力は首陽大君のものになりました。
恵嬪楊氏は錦城大君、永豊君らとともに端宗を守ろうとしました。
1455年。端宗は首陽大君を支持する重臣たちの圧力に負けて譲位。首陽大君が即位、世祖となりました。
世祖の時代
世祖の即位後。恵嬪楊氏は錦城大君、漢南君、永豊君らとともに横暴なふるまいをしたとして弾劾をうけ、清州に流罪になりました。
しかしその後も首陽大君派の役人から死罪にしろとの訴えが起こります。
1455年。次男の寿春君が死亡しました。病死だといわれます。
1455年11月9日。恵嬪楊氏は絞首刑になりました。
1456年。三男の永豊君が処刑されました。
1459年。長男の漢南君が処刑されました。
世宗に端宗を任され我が子のように育てました。幼い端宗を案じて守ろうとしましたが、世祖らによって処刑されてしまいます。恵嬪楊氏だけでなく彼女の息子たちも罪を着せられ処刑されてしまうのでした。
もし端宗が王として無事成長していれば、育ての親として大きな力をもっていたかもしれません。しかし世祖らによって叶いませんでした。
世祖は多くの血を流し権力を手にしました。恵嬪楊氏も犠牲になった一人なのです。
テレビドラマの恵嬪楊氏
独裁者への道 KBS 1990年 演:パン・ヒョジョン
ハンミョンフェ KBS 1994 演:パク・ジュングム
王と妃 KBS 1998年 演:キム・ヘリ
インス大妃 JTBC 2011 演:チェ・ジナ
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