平原王(へいげんおう、ピョンウォンワン)は高句麗の第25代国王です。
5世紀後半に高句麗王になった人物。
平原王の時代は東アジアが大きく動いていた時代。
大陸では北朝が統一され隋が建国。
朝鮮半島では新羅が強くなって勢力を伸ばしていました。
日本では飛鳥時代でした。
高句麗は国内でも争いが続き弱体化していました。そんな時代に生きた平原王でしたが、難しい選択を迫られながら高句麗の生き残りをはかっていきました。
韓国ドラマ「王女ピョンガン・月が浮かぶ川」の高句麗王・ピョンウォン王も平原王がモデルです。
ドラマでは主に国内の問題が多いように描かれます。国内はもちろん国外でも問題をかかえていました。
そんな平原王にはどのような正室・側室と子どもたちがいたのでしょうか?
高句麗は有名な割に記録が少ないです。
平原王には少なくとも三人の息子と一人の娘がいたことがわかっています。
正室や側室にはどんな人がいたのかはよく分かっていません。少なくとも二人はいたことが分かっています。
少ない資料からわかる範囲で平原王(ピョンウォンワン)の妻と子どもたちを紹介します。
平原王
姓 :高(こう)
名称:陽成(ようせい)
「三国遺事」では 陽城、「隋書」では「湯」
生年月日:532年?
没年月日:590年
在位:559~590年
子供:
嬰陽王 高元(26代高句麗王)
栄留王 高建武(27代高句麗王)
大陽王 高?
平岡公主 高氏(温達の妻)
平原王の詳しい説明はこちら
平原王の妻
正室
名前は不明
高句麗王の妃は代々絶奴部から迎えることになっています。慣習どおりなら平原王妃も絶奴部出身のはずです。
平原王の太子は高元(こう・げん、コ・ウォン、嬰陽王)でした。
母親の違う王子が複数いた場合、太子(王位後継者)は血筋の高い人が選ばれることが多いのです。太子の生母は王妃だったかもしれません。もちろん側室の子供の可能性も残っていますが詳しいことはわかりません。
子供:嬰陽王?
韓国ドラマ「王女ピョンガン」では絶奴(チョルロ)部族出身のヨン王妃が平原王(ピョンウォンワン)の正室。ヨン王妃はピョンガン王女(平岡公主)と太子ウォン(元)の母親です。王妃が絶奴(チョルロ)部出身の設定なので高句麗の慣習どおりになっています。
側室
名前は不明
「三国史記」には栄留王は嬰陽王の異母弟と書かれています。
嬰陽王の母が正室だとしたら、栄留王の母は側室になります。
栄留王と太陽王は同母兄弟の可能性が高い。
子供:栄留王と太陽王
韓国ドラマ「王女ピョンガン」ではゴンム(建武)王子の母がチン王妃の設定。
元(ウォン)と建武(ゴンム)の母が違うのは史実通りです。
王の妃にはさまざまな部族の出身者がいたと思われます。様々な部族が自分たちの権力のために妃を送り込んで様々な駆け引きがあったでしょう。
高句麗を支えた主な部族についてはこちらを御覧ください。
平原王の子
嬰陽王
(えいようおう、ヨンヤンワン)
26代高句麗王。
名前は元(げん、ウォン)
生年:不明
没年:618年
母は不明。
565年に太子になりました。
590年に父・平原王が死去したので王に即位。
高句麗末期に登場した名君とされます。
隋の滅亡が早くなったのも嬰陽王の時代の高句麗が頑張ったからともいえます。
領土拡張に熱心でした。
即位後すぐに遼東に攻め込みましたが。そのせいで隋の文帝・楊堅が怒って、隋が攻めこんできました。隋軍は大雨などの悪条件が重なって高句麗郡の抵抗に苦戦。嬰陽王が謝罪したこともあって隋軍は撤退しました。
文帝・楊堅死後、煬帝の時代にも隋に攻め込まれましたが。将軍の乙支文徳(いつし・ぶんとく、ウルチムンドク)たちの活躍もあり隋の攻撃を撃退。
隋の攻撃を何度も退けました。
百済、新羅にも積極的に攻め込みました。
温達(おんだつ、オンダル)が新羅との戦いで戦死するのも嬰陽王の時代。
平原王の末期から嬰陽王のじだいにかけて。高句麗は日本との同盟を強化して新羅との戦いを有利にするために日本に使節を派遣しました。
当時の日本は推古天皇や聖徳太子の時代です。日本にもたらされた文化や技術はその取引の材料です。仏像製作のために資金提供もしました。聖徳太子の師になった慧慈が日本に来たのもこの時代です。
そこまでして嬰陽王が日本に求めたのは軍事力です。事実、聖徳太子の弟が軍を率いて九州に向かっています(途中で不幸ごとがあって遠征は中止になりました)。
618年。死去。
韓国ドラマ「王女ピョンガン」では平岡公主(へいこうこうしゅ、ピョンガン王女)の弟の設定になっていますが。実際には嬰陽王が兄。平岡公主(ピョンガン王女)が妹。
栄留王
(えいりゅうおう、ヨンルワン)
27代高句麗王
名前:建武(けんぶ、ゴンム)
生年:不明
没年:642年
母は不明。
嬰陽王の異母弟。
618年。兄の嬰陽王が死去したため王になりました。
栄留王が即位した年には唐が建国。
栄留王王は唐との争いを避けて唐に従いました。
嬰陽王の時代に隋に何度も攻められ撃退しましたが、高句麗は疲弊していました。栄留王はとても唐と戦争はできないと考えました。
その一方で領土を巡って新羅との戦いは続けました。でも新羅相手に敗北続き。
642年。強行派の淵蓋蘇文(えん・がいそぶん、ヨン・ゲソムン)にクーデターを起こされ100人の臣下とともに殺害されました。
太陽王
(たいようおう)
名前。生没年は不明。
栄留王の弟、宝蔵王の父という以外は詳しいことは不明。
642年。淵蓋蘇文が栄留王を殺害後。太陽王の息子・臧を担いで王(宝蔵王)にしました。
息子が王になった時期には生きてなかった可能性が高いです。
息子の宝蔵王(ほうぞうおう)が即位したので大陽王の称号を与えられました。
内乱で弱体化した高句麗は668年に滅亡します。
宝蔵王は高句麗最後の王になりました。
平岡公主
(へいこうこうしゅ、ピョンガンコンジュ)
夫は将軍の温達(おんだつ、オンダル)
平原王の娘なのは確かなのですが生没年、生母など。
詳しいことは不明。
朝鮮半島最古の歴史書「三国史記・温達伝」に名前が載っています。
「温達伝」は韓国では「バカなオンダルとピョンガン公主」の物語としておなじみ。
くわしくはこちらをご覧ください。
実際に「温達伝」の内容そのままの出来事があったのかは不明。
王の娘が山で物乞いをしている温達のところに宝物を持って嫁ぐ。その後、温達が平原公主のアドバイスで活躍して将軍になる。というおとぎ話そのまんまの出世物語は事実とは思えません。
王女と結婚した将軍がいて。その将軍が新羅との戦いで戦死した。という話が脚色されたのでしょう。
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