中国ドラマ「王女未央」に登場する馮心児(ふうしんじ)の父は涼(りょう)の国王です。
涼の王は北魏から河西王の称号を与えられていました。
歴史上は涼という名前の国はいくつかありました。
このときの涼は「北涼」とよばれれています。
北涼はどんな国だったのか。
河西王はどんな人物だったのか紹介します。
北涼(ほくりょう)とはどんな国?
存在した時代
北涼が存在したのは古代中国の五胡十六国という時代。
漢・三国時代の後。
隋・唐の前の時代です。
このころの中国大陸は三国志の時代が終わり三国時代を統一した晋も滅び、小さな国がいくつもできて争っていました。
日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。河内(大阪府)で大きな古墳が作られていた時代です。
朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代になります。
北涼の場所
北涼は現在の中国・甘粛省のあたりにありました。現在の甘粛省は中国の北西部に位置し、西に新疆ウイグル自治区、北に内モンゴル自治区と接します。
当時のおおまかな領土を図にするとこのようになります。
ピンク色の部分が北涼です。
北涼の建国
北涼は沮渠(そきょ)氏が治める国。
沮渠氏の出身はよく分かっていません。匈奴(きょうど)や月氏(げっし)だといわれます。いずれも中国北部に住んでいた遊牧民族。漢を作った漢族とは違う民族になります。
もともと沮渠一族は後涼に所属していました。しかし後涼は戦争で敗退した責任を沮渠一族に押し付けて処刑しました。
これに怒った沮渠蒙遜は一族を率いて独立。従兄弟の沮渠男成も反乱に加わります。
397年。沮渠蒙遜と沮渠男成は漢民族の段業を担いで王にして北涼を建国しました。段業はお飾りの王です。実質的な権力は沮渠蒙遜(そきょ もうそん)と沮渠男成(そきょ だんせい)が持っていました。
その後、北涼から李暠が独立して西涼を建国。北涼内部でも争いがおこり、段業は配位させられ沮渠蒙遜が王になりました。
北涼は小さな国だったのでまわりの国と同盟したり服従したりして生き残りをはかります。
431年ごろから北魏との対立が本格化しました。北魏は中国北部で一番大きな国でした。
沮渠蒙遜は、息子の沮渠安周(そきょ あんしゅう)を北魏に人質として送り北魏に服従しました。沮渠蒙遜北魏から涼州牧・涼王の称号を与えられました。
北魏に服従
412年。北魏から河西王の称号を与えられました。以後、沮渠一族の王は河西王と呼ばれます。
433年。国王の沮渠蒙遜が病死。沮渠蒙遜の死後、北魏の命令で次の王が決められるなど、北魏の支配を受けました。
次の王になったのは沮渠蒙遜の三男・沮渠牧犍(そきょ ぼくけん)でした。
沮渠牧犍は、妹の興平公主を北魏におくりました。興平公主は大武帝の側室・昭儀になりました。
また大武帝の妹・武威公主が沮渠牧犍の妃になりました。
北涼と北魏は平和になったかに思えました。
439年。ところが武威公主が暗殺されそうになります。その処分を巡って北涼と北魏は対立しました。
大武帝が自ら軍を率いて北涼の都の近くまできました。
沮渠牧犍は降伏。北魏の都に送られました。
ここでいったん北涼は終わります。
沮渠牧犍は北魏に送られたあとも皇族の待遇で生活していました。
447年。ところが、北涼に財宝を隠し持っていたことがばれて問題になりました。怒った大武帝は沮渠一族の処刑を命令。北魏に来ていた沮渠牧犍と興平公主は処刑されました。
北涼の滅亡
北魏に攻め込まれ沮渠牧犍が連行されたあと。沮渠牧犍の弟、沮渠無諱(そっきょ むき)と沮渠安周(そっきょ あんしゅう)は生き延びて戦いを続けました。
442年。沮渠無諱たちは高昌で北涼を再興します。この国を高昌北涼ともいいます。
沮渠一族は南朝の劉宋という国に服従して「河西王」の称号を与えられます。
無諱のあとは安周が王になりました。
460年。遊牧民の柔然が攻めてきたため安周は死亡。
ここに北涼は滅亡します。
王女未央のドラマとの違い。
ヒロイン・馮心児の父は涼の王となってます。
でも、馮心児のモデルになった文成文明皇后は北燕の王族でした。北涼ではありません。
北涼の王が北魏から河西王の称号を与えられていたのは事実です。
北涼の王が都に連れて行かれて暮らした設定は沮渠牧犍の話をもとにしているのでしょう。
事実上の北涼最後の王は沮渠安周です。
ドラマでは沮渠牧犍が馮心児の父のモデルになってるようです。
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