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彭城王・劉義康 謀反の疑いをかけられ掛け布団で窒息死

6 南北朝

彭城王(ほうじょうおう)劉義康(りゅう・ぎこう)は中国南北朝時代の劉宋の皇子。

劉宋の初代皇帝 宋武帝・劉裕の第四皇子です。

国名は「宋」ですが、世界史で習う「日宋貿易」でおなじみの趙匡胤が建国した「宋」とは別の国。劉裕が建国した「宋」は日本ではあまり知られていません。同じ名前の他の国と区別するため国姓(皇帝の姓)の「劉」をつけて「劉宋」と呼ぶことにします。

劉義康は病弱な皇帝・宋文帝を補佐して政治を仕切っていました。ところがあまりにも多くの権限が集中。劉義康の周囲の者たちが病弱な皇帝に代わり劉義康を皇帝にしようと動き出します。

最初は劉義康を信頼していた宋文帝も不安になり、劉義康を地方に左遷。

北魏が攻めてくると反体制派に担がれるのを恐れた者たちによって殺害されました。

史実の劉義康はどんな人物だったのか紹介します。

 

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彭城王 劉義康の史実

いつの時代の人?

生年月日:409年
没年月日:451年

姓 :劉(りゅう)
名称:義康(ぎこう)
字:車子

国:宋(劉宋)
地位:皇子→庶人
称号:彭城王(ほうじょうおう)

父:劉裕
母:王氏
妻:謝氏

子供:6男6女

彼は劉宋の初代皇帝 武帝・劉裕の第四皇子 です。

日本では古墳時代(倭の五王の時代)になります。

 

おいたち

劉義康(りゅう・ぎこう)は東普時代の409年に生まれました。

父は東晋の将軍・劉裕。

420年。父・劉裕は東晋の恭帝から皇帝の座を奪い「宋」を建国。自ら皇帝になりました。

 

南北朝

世界史で習う趙氏の「宋」は960年建国なので劉氏の「宋」が先です。でも春秋戦国時代にも「宋」(紀元前11世紀から紀元前3世紀)という国はあったので劉氏の宋がオリジナルではありません。「宋」は地名からつけているので同じ場所に建国した国は「宋」と名付けられることがあるのです。

劉義康は彭城王(ほうじょうおう)に任命されました。

永初3年(422年)。劉義康は監南豫豫司雍並五州諸軍事など様々な役職を任されます。

永初3年(422年)。父の宋武帝 劉裕が死去。長兄の 劉義符(宋少帝)が即位しました。

元嘉元年(424年)。宋少帝 劉義符は遊んでばかりだったの臣下に反乱を起こされ皇帝の座を廃されました。かわりに三兄の劉義隆(宋文帝)が即位しました。

劉義康は驃騎将軍などを任されました。

劉義康は若くて様々な役職に付いていましたが、豫州で自分を助けてくれた劉湛を頼りにしていました。劉湛は人を見る目、判断力が優れいていたので、劉義康は決断するときにはいつも劉湛に相談していました。

皇帝の代わりに朝廷を仕切る

元嘉6年(429)。劉義康は王弘の推薦で宮中に呼ばれて都督揚南徐兗三州諸軍事、司徒、錄尚書事、領平北將軍、南徐州刺史を任されました。

劉義康は王弘とともに皇帝を補佐して政治を行いました。ところが王弘は病気がちだったので次第に劉義康が担当するようになりました。

元嘉9年(432年)。王弘が死亡。王弘の役職・揚州刺司をひきつぎ劉義康のもつ権力は大きくなりました。宋文帝も病弱だったので宮廷のことも劉義康の思い通りに決めることができました。

元嘉12年(435年)。太子太傅(皇太子の教育係)になりました。

元嘉13年(436年)。宋文帝の病気は更に重くなりました。

劉義康は司空の檀道済(だん・どうさい)が皇帝の死後、反乱を起こすのではないかと心配になりました。そこで檀道済を都に呼び寄せて処刑しました。さらに檀道済の息子たちと、将軍の高進之も処刑しました。

元嘉16年(439年)。大将軍になりました。

劉義康は素直な性格で慎重さが足りないところがありました。兄の文帝にも遠慮なく自分の意見を言います。

劉義康の部下で親信左長史の劉斌(りゅう・ぶ)、従事中郎の王履(おう・り)、劉敬文たちは、劉義康が朝廷で大きな権限をもっていること宋文帝が病で政治を行えないことを理由に新しい君主を立てるべきと嘆願書を出しました。

また劉義康の知らないところで、役所に出入りして普康帝が皇帝になったときの資料を入手しました(このときも兄から弟に皇帝の座が交代しています)。病気から回復した宋文帝は劉斌たちの動きを知りました。

宋文帝は劉義康が皇帝の座を狙っているのではないかと警戒するようになります。

その後、劉義康が人事について宋文帝と相談すると、劉義康の説明が終わらないうちに宋文帝が劉義康が推薦したのとは違う人物を決定することが何度かありました。

元嘉16年(439年)。宋文帝は劉義康の屋敷を訪れることはなくなりました。

元嘉17年(440年)。宋文帝は劉義康が親しくしていた劉湛と劉斌を処刑。劉湛の仲間を流刑にしました。

その日、劉義康は中書省にいましたが皇帝の決定が伝えられると劉義康は引退届けをだしました。

地方に左遷

宋文帝は劉義康を都督江州諸軍事、江州刺史に任命して地方に左遷しました。

元嘉22年(445年)。徐湛之は范曄、孔熙たちが劉義康を皇帝にしようと企んだと訴えました。

范曄、孔熙は処刑され。劉義康は身分を奪われ庶人に落とされ安成郡に流罪になりました。安成郡では寧朔将軍の沈邵から安成公國相に任命され、防衛の指揮を取ることになりました。

元嘉24年(447年)。胡誕世たち豫章の人々が劉義康を皇帝にしようと反乱を起こしましたがすぐに鎮圧されました。

そのころ、江夏王の劉義恭は劉義康が嫌いだったので「劉義康は人心を惑わしているので広州に流罪すべき」と嘆願書を書きました。

宋文帝はその嘆願を聞き入れて劉義康を広州に異動させようとしました。劉義康が出発する前に沈邵が死亡したので劉義康は安成郡にとどまりました。

元嘉28年(451年)。北魏の大軍が長江の北まで攻めてきました。劉宋は危機的な状況になりました。劉義隆は反体制派が劉義康を担いで反乱を起こすのを危惧して劉義康を殺そうとしました。そこで巌龍に命令して毒薬を用意させ劉義康に飲むように矯正しました。

ところが劉義康が信仰している仏教では「自殺したものは転生できない」と信じられていたので劉義康は自害を拒否。そこで巌龍は掛け布団で劉義康を窒息死させました。

享年43歳。

 

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