楊瓚・隋文帝 楊堅の弟は兄に殺された?

周4 隋・唐

楊瓚(よう さん)は北周~隋の時代の武将。

隋初代皇帝・楊堅の弟です。

北周皇帝からの信頼が厚く、北周武帝の妹と結婚していました。北周王朝を倒して自分の国を建国した兄とは仲がよくありません。

最後は兄とでかけた先で急死してしまいます。

楊堅に毒殺されたと噂されています。

楊瓚とはどのような人だったのでしょうか?

 

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楊瓚の史実

生年月日:550年
没年月日:591年

姓:楊(よう)
名:瓚(さん)
字:恒生

国:北周→隋
地位:
父:楊忠
母:呂苦桃
妻:順陽公主 宇文氏

子供:7男

楊綸(字は斌籀、邵国公、邵州刺史)ほか。

日本では飛鳥時代になります。

北周の時代

550年。楊忠の三男として生まれました。
母は呂苦桃。後に隋皇帝になる楊堅の同母弟です。

父・楊忠が功績をあげたので 竟陵郡公 の爵位を与えられました。

564年。納言になり、儀同の位を受けました。

武帝・宇文邕に信頼される

楊瓚は美形で大変な読書家(この時代の読書家=知識人)、学者との会話が好きでした。世間でも評判になっていました。人びとは楊瓚のことを「楊三郎」と呼びました。

北周武帝は楊瓚を大変気に入って、妹の順陽公主を楊瓚と結婚させました。楊瓚は武帝に忠誠を尽くしました。

妻の順陽公主は、楊堅の妻・独孤伽羅とは仲はよくありません。もともと楊瓚は兄の楊堅よりも武帝と親しくしていました。妻同士も仲が悪いので、ますます兄弟は疎遠になっていきました。

北斉との戦いでは武帝は諸侯を引き連れて遠征しました。そのとき楊瓚を都の護りに残しました。

遠征の前、武帝は楊瓚に「朝廷のことはすべて君に任せた。私は東(北斉)に征伐に行き、西(北周)のことは気にしない」と言ったそうです。

武帝はそれほど楊瓚を信頼していました。

578年。武帝が死去。宣帝・宇文贇(うぶん いん)が即位しました。
右中侍上士から御伯中大夫に昇進しました。

 

楊瓚の人間関係の相関図はこのようになります。

人物相関図

野心を持つ兄 楊堅には従わない

ところがまもなく579年。宣帝が死去。

すると兄・楊堅は朝廷に入って政治を仕切ろうと考え、息子の楊勇に頼んで楊瓚を呼び出そうとしました。でも楊瓚はもともと兄・楊堅とは意見が合いません。楊堅からの呼びかけは無視しました。そして「随国公になったからといって一族を守れるのか?なぜ一族を滅ぼすようなことをするのか?」と言ったといいます。

280年。楊堅は大丞相になりました。楊堅は北周皇帝の名のもとに楊瓚を大将軍にしました。

その後、楊瓚は大宗伯に任命され、礼律の典修をまとめました。上柱国に任命され、邵国公の爵位を与えられました。

それでも楊瓚は楊堅のやり方に納得がいきません。

楊瓚は楊堅が宰相になって権力を振るうのをみていましたが、臣下たちが不満を持ち、何度か反乱も起きています。

楊瓚は楊堅のせいで楊一族に災いが降りかかるのではないかと恐れました。

楊堅がかつての宇文護のようになってしまうのではないか?と考えたのでしょう。もし反乱が成功すれば楊一族が殺される可能性もあります。

そこで楊瓚は何度か楊堅の暗殺を計画しましたが失敗しました。どうやら楊瓚の行動は楊堅に筒ぬけだったようです。楊堅は楊瓚を許して暗殺計画があったことは隠しました。楊瓚も楊一族のためを思ってやったこと。楊堅そのものを殺したいほど憎んでいるわけではないからです。

楊堅は仲の悪い兄弟でも我慢強く許しました。兄弟の情もあったのでしょうけれど、楊堅にも簡単には切り捨てられない事情もありました。楊堅は5人兄弟の長男でした。2番めの弟は数年前に戦死、4番めの弟は若くして死亡、末弟はまだ若い。頼りになる兄弟や親族は楊瓚しかいませんでした。

楊堅が下剋上を実現

581年。楊堅はクーデターを起こしました。楊堅は8歳の静帝・宇文闡(うぶん・せん)を脅して皇帝の座を奪いました。下剋上がおきたのです。

楊堅は国名を「隋」にしました。戦乱の時代に幼い皇帝では混乱を鎮められません。楊堅とその支持者は幼い皇帝を補佐するよりは楊堅が皇帝になって国を治めたほうが良いと考えたのです。

楊堅が宮中でクーデターを起こした時、楊瓚がどんな行動をとったのかは記録にありません。楊瓚の行動は楊堅にはバレていましたから楊瓚が邪魔をできないように見張られていたでしょう。

楊瓚を懐柔する楊堅

皇帝になった楊堅は、楊瓚に勝王の称号と雍州牧の役職を与えました。文帝 楊堅は楊瓚を何度も上座に呼び寄せ「阿三=3番めの兄弟」と呼びました。楊堅としては手厚い待遇で楊瓚を味方にしようと思ったのでしょう。

混乱した世の中を治めるためには強い者が統治したほうがよいのかもしれません。楊瓚もそれはわかっていたかもしれません。複雑な想いだったでしょう。楊瓚と楊堅の関係は悪くなっていきました。

後に、赴任先で事件がおきて連帯責任をとらされて雍州牧の職を解任されます。雍州を去って王府(屋敷)に入りました。

妻・宇文氏と独孤皇后の仲が破滅的に悪くなる

楊瓚の妻・宇文氏(順陽公主)は北周滅亡後、ひどく落ち込んでうつ状態になっていました。宇文一族の王朝を潰した楊堅夫妻には恨みをもっていたのでしょう。そしてもともと仲の悪かった伽羅にその憎しみが向かっていったのかもしれません。

ところが、宇文氏が呪詛をしていたことが知られてしまいました。

それを知った隋文帝・楊堅は楊瓚に妻を離縁するよう命令しました。

妻と離縁の命令を拒否して急死

でも楊瓚は宇文氏と別れたくありません。楊瓚は離縁の命令を取り消すように楊堅に懇願しました。楊堅も楊瓚の意志の硬さを変えることはできませんでした。

結局、隋文帝・楊堅は宇文氏を皇籍から外しました。

でもこの事件で隋文帝・楊堅は楊瓚への不信感を高めました。

591年。楊瓚は隋文帝と一緒に栗園に行きました。そしてその場で急死しました。享年42。

それまで兄弟仲が悪くても我慢してきた楊堅でしたが。権力を手にした楊堅にとって楊瓚は必要のない存在になったのかもしれません。

人びとは「毒酒を飲まされたに違いない」と噂しました。

妻の宇文氏はその後、どうなったかはわかりません。

 

楊瓚の死後、子ども達も苦労する

 

楊瓚の死後。

子の楊綸があとを継ぎました。楊綸は皇帝の機嫌を損ねて死亡した楊瓚の息子ということもあり心の休まることはなかったといいます。隋にたいして李淵が反乱をおこして唐を建国した時。楊綸は唐に降伏しました。

他の子供達も煬帝の時代に地方に流刑になります。煬帝は皇子のころから母・伽羅に気に入られるように行動してました。母の好みは知っています。母の恨みを受け継いでいるのでしょうか。

テレビドラマ

独孤皇后 2019年 演:方逸倫

ドラマでは宇文珠が宇文護と内通したことになっていて。隋建国後、それが問題にされます。楊瓚は妻の宇文珠(順陽公主)と離婚するように迫られます。でも楊瓚は拒否しました。そして自ら庶民になることを望んで楊瓚と宇文珠がふたりとも庶民として生きていく。という内容になってます。

「独孤皇后」は史実に基づくと言いつつも楊堅・伽羅夫妻をかなり美化しているので史実と違うところも多いです。

夫婦の愛が強かったのはむしろ楊瓚・宇文氏のようにも思えますね。

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