PR

「万華楼」均王 李清流 のモデル 均王 李遐 とは?

とう 5.1 隋唐の皇帝・皇子

中国ドラマ「万華楼」の主人公・李清流(り・せいりゅう)は唐王朝の皇帝代宗の息子の設定です。

戦乱で離れ離れになった民間人として育ち。ドラマ中盤で皇子だとわかり。長安に行って代宗に認められ「均王」の地位が与えられます。

史実でも代宗には均王の称号を持つ息子がいました。

でも名前は「李清流」ではありません。李遐(り・てい)といいます。

名前は違いますけれど。均王 李遐 がドラマの均王 李清流のモデルになったのは確かです。

史実の均王 李遐はどのような人だったのか紹介します。

 

PR

史実の 均王 李遐

歴史上の 均王 李遐(り・てい)は唐 代宗の第三皇子。

均王を第四皇子と考える説もありますが。その場合は李偲(り・し)が第三皇子になります。李偲は歴史書「旧唐書」では代宗の庶子となってます。ところが李偲の墓碑には「父は肅宗」と書かれています。「旧唐書」は唐滅亡後に記録を編集して作った書物。墓碑は当時の人が作った物。墓碑の方が正しいと考えられます。李偲は代宗の息子ではなく、弟なのです。

となると均王 李遐は第四皇子ではなく、第三皇子になるのですね。

また。
歴史上の均王の名前は 李清流(り・せいりゅう)ではなく 李遐(り・かい)です。

「清流」は漫画や小説の登場人物にありそうなキラキラネーム。唐時代の王侯貴族の名前にはなさそうな名前です。

名前や順番はともかく。

代宗に 均王(きんおう)の称号をもつ皇子がいたのは事実です。

均王 李遐(り・てい)の父は唐 代宗 李豫(り・よ)。

李遐が生まれたときは代宗は即位する前で 広平王 李俶(り・しゅく)と名乗ってました。

均王の母親は?

ドラマ「万華楼」では均王 李清流の生母は「崔氏」になってます。

史実の均王 李遐の母親はわかりません。

唐の時代は有名なわりに意外と資料が残ってないんです。皇后やよほど有力な妃の子なら別ですが。皇子なのに母親がよくわからないというのは唐ではよくあります。

もちろん当時の人達は知っていたはずですけれど。記録が残っていないんですね。

それでも代宗の父・粛宗の子の母はほぼ全員母親が分かっています。玄宗の子の母も分かってます。平和でわりと余裕のある時期の皇帝は詳しく記録が残っています。

それなのに代宗の子の母がわからない。代宗の次の徳宗、その次の順宗も子供の記録には母不明というのが多いです。どうも安史の乱の前後で記録の残し方が変わったのかもしれません。

ドラマ「万華楼」では李清流の母は崔氏。李清流の姉は 昇平公主 という設定。昇平公主の生母は史実でも崔貴妃です。

この崔貴妃があの「広平王妃 崔氏」と同一人物なのか、別人なのかは分かっていません。歴史上の代宗は昇平公主を溺愛しました。その昇平公主が広平王妃 崔氏の子供とは考えにくいのですが。母と娘は違うのでしょうか。

歴史上の均王の生母が不明なのをうまく利用してドラマ「万華楼」では昇平公主と姉弟の設定にしてドラマ的な面白さを出しているようです。

均王の生まれ年は?

均王 李遐(り・てい)の生まれた年はわかりません。でも第三皇子なのはわかっています。

他の兄弟で生年がわかっているのは。

第二皇子の昭靖太子 李邈(母:崔妃)の生年が746年。

第七皇子の韓王 李迥(母:貞懿皇后 獨孤氏)の生年が750年。

ですから。

均王 李遐の生年は746年から750年の間です。

第七皇子が750年生まれなので第三皇子の生年が750年ぎりぎりということはないでしょう。

446年~748年くらいかもしれません。

安禄山が反乱を起こしたのが752年。安史の乱までには生まれていました。

安史の乱で死亡した?

均王 李遐はどんな人生を歩んだかというと。残念ながら「夭折」つまり幼くして亡くなってます。均王 李遐の記録はまったくありません。

生まれてすぐ亡くなったか。
安史の乱のどさくさで死亡したかのどちらかでしょう。

安史の乱では玄宗や皇太子(後の粛宗)、広平王(後の代宗)は主要な妃と皇子だけ連れてさっさと逃げてしまって。後宮の人々は置き去りにしました。側室や皇女は見捨てられました。

公式記録では「避難」が急に決まったので、その場にいなかった人たちは連れていけなかったのだそうです。でも宮殿の外にいる楊貴妃の姉妹には避難の連絡が行ってました。なぜ後宮の人たちに連絡が行かなかったのでしょうか。不思議です。

ちなみに沈氏(民間伝承では沈珍珠という名がついてます)も置き去りにされた側室の一人です。あとで長安を奪回して助け出したのですが。一度賊軍の捕虜になった妾はいらないとばかりに沈氏を別の宮殿に遠ざけてしまって、次の反乱でまた犠牲になりました。

そうして戦乱の中で命を落とした人たちの中に均王 李遐もいたのでしょう。記録が残っていない均王の生母もそのときに亡くなったと思われます。

当時10歳の第一皇子 李适(徳宗、母:沈氏)、6歳の第二皇子 李邈(昭靖太子、母:崔妃)は皇帝や父たちと一緒に避難しています。弟の李述、李逾、李連、李迥は無事に安史の乱を生き延びました。

李遐が安史の乱まで生きていたら、李遐も兄弟と一緒に避難しているはずです。避難先で死亡したのかもしれません。もちろん安史の乱までに亡くなってる可能性もあります。

ドラマ「万華楼」では李清流は母の崔氏たち一緒に避難したけど、都に戻る途中で生き別れた事になってます。

均王の称号を与えたのは父・代宗ではなく兄・徳宗

史実では李遐に「均王」の称号が与えられたのは792年。

代宗は779年に亡くなっています。

「均王」の称号を与えたのは兄の徳宗なのです。

徳宗とは安史の乱で行方不明になった沈氏の息子 李适(り・かつ)のことです。

代宗は息子が死んだのに何してたんでしょうか?幼くして死んだので称号はいらないと思ったのでしょうか。それとも見捨てたから触れたくなかったのでしょうか?

それならなぜ徳宗は「均王」の称号を与えたのでしょうか?

徳宗 李适と 均王 李遐は子供のころ仲が良かったのでしょうか? 

となると沈氏と李遐の母の人間関係は?

と想像が膨らみます。

徳宗が母の沈氏を必死に探したのは本当でしょう。同じように戦乱の犠牲になった弟にも同情する気持ちはあったと思います。だから「均王」の称号を贈ったのでしょう。

それを思うとドラマ「万華楼」で均王 李清流 と 皇太子(後の徳宗)が協力関係にあるのは感慨深いものがあります。

ドラマ「万華楼」の均王 李清流 は宮廷での問題を解決した後、宮廷を去ります。ラストは史実に合わせて「均王は若くしていなくなった」ことになっています。残ったのは「一般人としての李清流」 です。

もし史実でも均王が成長していたら徳宗とどんな関係になったのでしょうか。王朝を立て直すために協力したのでしょうか。それとも王位を狙ったのでしょうか。今となってはわかりません。

ドラマ

万華楼 2021年、中国。 演:賴藝 役名:李清流

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました