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秦王 李世民・挙兵から玄武門の変で皇帝になるまで

とう 5.1 隋唐の皇帝・皇子

太宗 李世民(り・せいみん)は唐の第2代皇帝。

父・李淵とともに挙兵に参加。唐の建国に協力しました。

皇帝になる前は「秦王」の爵位で呼ばれていました。

歴史書などでは李世民の業績が大きく描かれ、唐の建国の中心になったように言われることもあります。

李世民は優れた人物だったのは間違いありません。

でも李世民は正史の編纂を命じた皇帝です。記録にも手を加えたのではないかと疑われています。歴史書に書かれた李世民は脚色されている可能性もあります。

史実の李世民はどんな人物だったのでしょうか。

皇帝になるまでの李世民を紹介します。

 

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秦王 李世民の史実

いつの時代の人?

生年月日:598年1月28日
没年月日:649年7月10日

姓 :李(り)氏
名称:世民(せいみん)

国:隋→唐
地位:秦王

父: 高祖李淵
母:太穆皇后竇氏
妻:長孫皇后

子供:14男17女

李世民は隋末期・煬帝の時代から唐の初期の人物。

日本では飛鳥時代になります。

 

隋の時代

隋の文帝 楊堅の時代。
開皇17年12月16日(598年1月28日)に武功県(現在の中国陝西省咸陽市)で誕生。

李家は西魏・北周では八柱国のひとつに入る名門。

父は隋の唐国公 李淵(り・えん、後の唐 高祖)
 李淵の父は北周の唐国公 李昞(り・へい)
 李淵の母は西魏~北周の重臣・独孤信の四女・独孤氏

母は竇(とう)氏(後の太穆竇皇后)
 竇氏の母は西魏の実力者・宇文秦の娘。

李世民は李淵の次男です。

李世民は幼いころから頭が良く、深い洞察力を持っていたといいます。

大業11年(615年)。16歳のとき。
煬帝 楊広が遠征中に雁門で突厥に包囲されました。李世民は煬帝を救出するための部隊に参加。屯衛将軍・雲定興の配下で戦い、煬帝救出に貢献しました。

大業12年(616年)。父の李淵が太原留守を任されました。李世民は父の元で働きました。

魏刀児(ぎ・とうじ)という者が歴山飛と名乗り反乱を起こしました。魏刀児の軍は太原に攻めてきて隋の武将を殺害。李淵の部隊も包囲されました。李世民は精鋭の騎馬隊で包囲網を突破。弓矢で敵軍を攻撃して李淵を救出。その後、歩兵の増援部隊が到着。李淵と李世民は攻め込んで魏刀児の軍を撃破しました。

このころ煬帝の圧政で各地で反乱が続発。隋に仕えていた将兵たちも反乱を起こし、各地で武装集団が勢力を競う世の中になっていました。後漢末期の三国志前夜のような有様でした。

 

父・李淵の挙兵

普陽起兵

李淵は皇帝一家とも親戚で本来は皇帝を補佐する立場にあります。ところが猜疑心の強い煬帝は人望のある李淵を警戒していました。

世間では反乱が頻発。李淵も煬帝を見限ったのか人を集めて挙兵の準備をしていました。

大業13年(617年)2月。李淵の管轄する地域の馬邑(山西朔州市)で鷹揚府校尉 劉武周が反乱を起こし馬邑太守 王仁恭を殺害。馬邑太守を名乗りました。さらに突厥と協力して離宮の汾陽宮を制圧しました。李淵は高君雅を派遣しましたが鎮圧に失敗。煬帝はそれを知ると激怒。李淵を江都に呼びだすように命令しました。

6月。煬帝に処罰されるのを恐れた李淵は挙兵しました。

このとき李世民や腹心の裴寂、許世緒、武士眜たちが李淵を説得したといいます。

新唐書などにはこのような話もあります。
当時、煬帝は各地に離宮を作り美女を集めていました。普陽宮もそのひとつ。普陽宮の管理を任されていた裴寂(はい せき)は李淵と親しい間柄でした。李世民と裴寂は共謀して普陽宮に李淵を招待、宮女を侍らせ酒を飲みました。酒の最中、裴寂は李淵に皇帝の女に手を出したので後はひけないと決起を呼びかけたといいます。小説じみた話で本当とは思えません。

李世民がどの程度、挙兵の決定に関わったかはわかりません。李淵は太原に来たときから挙兵を考えていた様子もあり。煬帝の呼び出しがかかった時点で決断したのでしょう。

李世民たちの工作で挙兵は作り話のように思えます。

ただ血気盛んな李世民が父に挙兵を勧めたことはあったのでしょう。

当時、各地で武装勢力が挙兵。最大の勢力と思われる李密は隋の東都・洛陽を攻めていましたが強固な守りに手こずっていました。隋の西都・長安に皇帝はいません。皇帝 煬帝はすでに南方に逃げていて都に皇帝は不在でした。長安の周辺にも強力な敵はいません。

そのスキをついて李淵は長安を守る代王 楊侑を新しい皇帝に担ごうと長安を目指しました。

李世民は右領軍大都督・敦煌郡公に任命され兄の李建成とともに軍を率いて長安に向けて進軍しました。途中、隋の宋老生を撃破。

11月。李淵たちは長安を占領。長安にいた13歳の代王 楊侑を新しい皇帝に即位させ。遥か遠くにいる煬帝を太上皇帝ということにしました。

李世民は「秦国公」の爵位が与えられました。

618年(義寧2年)1月。右元帥、3月には趙国公になりました。

 

唐の建国

江都にいた煬帝が宇文化及に殺害されました。宇文化及は最初は皇族の楊浩を皇帝に担ぎましたが、楊浩を殺して自分が皇帝になってしまいます。それ以外にも各地の武装勢力のリーダーが皇帝を名乗りはじめました。

そして武徳元年(618年)5月。李淵は「皇帝」を名乗り国号を「唐」にしました。用済みになった楊侑は処刑されました。

長兄・李建成が皇太子になり。李世民には「秦王」、同母弟の李元吉は斉王の爵位が与えられました。

また、李世民は尚書令に任命されました。李世民はこのあと皇帝に即位するまで尚書令を務めます。そのため後の唐朝では皇帝が務めていた役職に臣下がなるのは恐れ多いということで尚書令は空席のままにされました。

しかし各地に何人も自称皇帝がいます。このときの「唐」も自称皇帝の支配する小国に過ぎませんでした。

天興3年(619年)。斉王 李元吉の守る太原を劉武周と突厥軍が攻めました。李元吉の兵力では太原を守ることができず長安に逃げてきました。高祖 李淵は太原の放棄も考えましたが、秦王 李世民は奪回を主張。

兵を率いて出陣すると劉武周軍と戦い太原を奪回しました。敗れた劉武周は突厥に逃亡。このとき尉遅恭・尋相・張万歳たちを味方にしました。太原の城壁を修復後、長安に戻りました。

虎牢の戦い

洛陽で鄭国の皇帝を名乗る王世充を討伐に向かいます。

武徳4年(621年)3月。李世民は洛陽を包囲しました。すると鄭皇帝 王世充は夏王 竇建徳(とう けんとく)に救援を求めました。

夏王 竇建徳は10万の大軍で攻めてきました。李世民は李元吉たちに洛陽の包囲を任せ。李世民は3500の兵をつれて竇建徳を迎え撃ちました。李世民は正面から竇建徳の大軍と戦うのを避け兵糧が尽きるのを待ちました。

5月。飢えに苦しむ竇建徳の軍は李世民の作戦にひっかかって混乱。李世民が竇建徳の本陣を襲撃。戦いに勝利、竇建徳を捕虜にしました。

竇建徳の敗北を知った王世充は唐に降伏。洛陽も唐のものになりました。竇建徳は長安に送られ処刑されました。王世充も処刑されるところでしたが、洛陽を開城するとき李世民が命は助けると約束したので、王世充は庶民に落とされ巴蜀に流罪になりました。しかし王世充は流刑先にいたところ彼に恨みを持つ独孤修徳(どっこ しゅうとく)に殺害されてしまいます。

唐に対抗できる二大勢力が消滅しました。

大手柄を立てた李世民に高祖李淵は「天策上将」という称号を与えました。「天策上将」は王公よりも上とされました。

皇帝 李淵は首都・長安で国を統治。皇太子 李建成も父の側で補佐しました。遠征は主に李世民の役目でした。戦いで手柄を立て続ける李世民の評判があがります。

そこに天策上将の称号が与えられ、世間では李世民は皇太子に継ぐ地位を与えられたと考える者もいました。

このあたりから兄弟の対立が激しくなります。

劉黒闥の討伐

一方、竇建徳の部下だった劉黒闥(りゅう こくたつ)が河北で挙兵。高祖が派遣した李神通たち唐軍を撃破。武徳5年(622年)には漢東王を名乗ります。

武徳5年(622年)3月。秦王 李世民は漢東王 劉黒闥に決戦を挑み破りました。敗れた劉黒闥は突厥に逃げました。しかし突厥の助けを得て再び挙兵しました。

このときは皇太子の李建成が劉黒闥を討ちました。

武徳5年(622年)7月。高祖 李淵は長安の外に弘義宮をいう宮殿を造り李世民はそこに住むように命じました。

武徳7年(624年)ごろには、唐は中原をほぼ統一しました。

 

玄武門の変

兄弟の対立

やがて李世民側と皇太子 李建成側の対立が起こるようになります。李世民と李建成は9歳も離れているので最初は李世民も兄に取って代わるつもりはなかったかもしれません。でも李世民が功績が上がるにつれて、周囲の者が野心を持ったかもしれません。

皇太子と諸王では大きな差があります。「天策上将」や「弘義宮」は李世民側の不満を和らげる褒美のつもりだったかもしれません。あるいは李世民を長安の外に移して対立を避けようとしたのかもしれません。

しかし李世民側は皇太子 李建成と李元吉が高祖の妃と浮気したなどと悪評を流し。李建成批判を行いました。

たまりかねた李建成と李元吉、噂を立てられた妃たちは高祖 李淵に李世民は酷いのではないかと訴えます。

高祖 李淵は李世民を罰しようとしましたが臣下に止められました。

李建成は李世民の臣下で策略を行っていた房玄齢と杜如晦を訴えました。高祖 李淵は房玄齢と杜如晦を閉門蟄居を命じます。

李世民側が皇太子の座を得るため策略を行っていたのは皇太子 李建成には知られていました。高祖 李淵も気づいていたでしょう。

武徳9年(626年)李世民は李建成と李元吉の排除を決意します。

反乱当日

まず李世民は高祖のもとに行き、兄の李建成、弟の李元吉、妃たちが自分を殺そうとしていると訴えました。

高祖 李淵はその場では判断せずに明日、李建成たちを呼んでお互いの話を聞こうということになりました。

武徳9年6月4日(626年7月2日)。朝。李建成と李元吉は兵をつれて長安城の北門・玄武門までやってきました。門の外で兵を待機させ李建成と李元吉は門をくぐりました。玄武門の守備隊長・常何は李建成の部下ですから李建成は安心していたのです。

でも李世民はあらかじめ李建成の部下・玄武門の守備隊長・常何を買収していました。

玄武門を通ろうとした李建成と李元吉は常何たちの兵に襲われあっさりと殺害されました。

太宗 李世民 誕生

数日後。李世民は皇太子になりました。李世民は高祖 李淵に譲位を迫ります。

李世民は李建成や李元吉の子ら10人近くを処刑しました。

武徳9年8月9日(626年9月4日 )。李淵は退位して太上皇帝になり、李世民が皇帝に即位(太宗)しました。

李世民は李建成派の魏徴を呼び出すとなぜ兄弟を離反させようとしたのか詰問しました。すると魏徴は「私の言う通りにしておけば(李世民を暗殺しておけば)今のようなことはなかったのに」と堂々と答えたと言います。その度胸を気に入った李世民は魏徴を許し朝廷の重臣として取り立てました。他にも役に立つと思った者は李建成派でも採用しています。

というのも李淵が挙兵してしばらくは唐は人材不足だったこと。李世民派、李建成派といってももとは唐以外の勢力出身の者が多かったため。忠義よりも自分を高く買ってくれる人に仕える傾向があったこと。などの理由があります。

李淵は自分が李世民のために用意した弘義宮(大安宮に改名)に移され、そこで余生を過ごしました。

そして太宗 李世民の時代がやってきます。

 

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