宣宗 李忱(り・しん)は唐の第19代皇帝。
中国ドラマ「与君歌(よくんか)」の 珖王 斉宸のモデルになった人物です。
安史の乱以降、唐が衰退にむかいつつあった時期に、なんとかその衰退を食い止めようとした皇帝です。
宣宗 李忱は皇帝になる前は、人々から頭の良くない人物と思われていました。ところが宣宗が即位すると様々な政策を実行。人々は決断力のある人物だと知ることになります。
宣宗の時代に牛李の党争といわれる派閥争いが終わり。宦官の横暴も少し治まりました。
宣宗時代の記録は黄巣の乱で失われたものも多くよくわからない部分もありますが。「旧唐書」や「資治通鑑」の内容からは唐の後半に現れた優れた皇帝と言われてます。
史実の唐宣宗はどんな人物だったのか紹介します。
唐宣宗 李忱の史実
いつの時代の人?
生年月日:810年7月27日
没年月日:859年9月10日
姓 :李(り)李氏
名称:怡(い)→忱(しん)
国:唐
地位:皇帝
廟号:宣宗(せんそう)
父: 憲宗
母: 鄭氏
正室:なし
側室:美人晁氏ほか
子供:鄆王李温(懿宗)、雍王李渼(靖懐太子)など
彼は唐の第19代皇帝です
日本では平安時代になります。
おいたち
父は 憲宗
母は鄭氏。
鄭氏は鎮海節度使 李錡の妾。李錡が反乱を起こして鎮圧されると、鄭氏は後宮に入れられ郭貴妃の侍女になりました。鄭氏は憲宗の寵愛をうけて李怡を出産しました。
しかし李怡は口数が少なく宮中では愚かな人物と思われていたので、文宗、武宗や唐の皇族たちから見下されていました。とくに武宗は李怡を馬鹿にしていました。
会昌6年(846年)武宗が病気に倒れました。宦官の馬元贄たちは李怡が扱いやすいと考え李怡を次期皇帝に選びました。李怡は李忱に名前を変えました。まもなく武宗が死去。宣宗 李忱が即位しました。このとき37歳でした。
宣宗即位後
宣宗は太宗 李世民時代のことを書いた「貞観政要」を愛読していて、即位後は熱心に政治に取り組みました。
牛李の党争は終わり
宣宗が即位したころ、朝廷では激しい派閥争いが起きていました。14代憲宗の時代から続いている争いでした。一方の派閥を率いるのが貴族出身の李徳裕。
一方の派閥を率いるのが科挙で官僚になった牛僧孺。片方の派閥が勝つ度に大臣から中堅クラスの役人が入れ替わり、前の政権の政策は全否定。そんなことを繰り返すのですから。朝廷も民も混乱していました。
宣宗は即位した当日に宰相の李徳裕を解任。牛派の白敏中を採用しました。
宣宗と白敏中は李徳裕派を排除。地方に飛ばされていた牛僧孺派を採用しました。またしても朝廷の人事がごっそり入れ替わったのです。
宣宗の派閥入れ替えは過酷でした。武宗時代に宰相だった李徳裕派を地方に飛ばして降格させて、最終的に従七品の地方の下級役人にました。流罪みたいなものです。
848年に牛僧孺。849年に李徳裕が海南島で死亡。
主要人物がいなくなり牛李の党争は終わりました。しかし40年近く続いた派閥争いは朝廷を混乱させただけで唐の国力を疲弊させました。
牛李の党争は宣宗の時代にようやく終わったのですが。宣宗が優れていたというより、争いの主要な人物が死亡したからという理由が大きかったようです。
宣宗の政策
武宗は道教の熱烈な信者で仏教を弾圧していました。宣宗は仏教の弾圧を止めました。武宗に取り入り仏教弾圧を強力に推し進めていた道士の趙帰真を処刑。他の道士たちも流刑にしました。
当時、朝廷では宦官が権力を握っていました。そこで高い地位につく宦官を減らし、宦官が過剰な権力を持つのを抑えようとしました。宣宗の取り組みはある程度は成功しました。
また「甘露の変」で処刑された者の中で鄭注、李訓以外の者たちの冤罪を晴らしました。
吐蕃(トゥプト)、ウイグル(回鶻)、タングート(党項)、奚と戦い、安史の乱以後失われていた領土のいくらかを取り戻し。久しぶりに西域へのルートを取り戻しました。
朝廷の支出を減らし、民の年貢を減らしました。
宣宗は寛大な人物でしたが法律の適用には厳しく、周囲の人々が朝廷の政治に干渉することを禁じました。 宣宗は「もし法律に違反したら、たとえ私の息子や娘であっても許さない」と言いました。
晩年
続出する兵乱と民乱
大中12年(858年)。このころから南部の容管、嶺南、湖南、江西、宣歙、武寧などの藩鎮で朝廷が派遣した節度使や観察使が現地の将兵たちに拒否され反乱を起こされる事件が続発しました。
安史の乱以降、唐は各地に節度使をおきましたが憲宗の時代に節度使の力を弱め世襲ではなく任期制にしました。そして地方勤務の間に中央に上納金を多く納めた者が中央で出世できる仕組みにしました。
すると節度使は民から税以上に搾取してその差額を朝廷に上納するようになりました。また税以上に徴収した銭を自分の懐に入れる者もいます。兵に支払われる給料を横領する節度使もいました。
こうして兵や民の不満が溜まり、各地で兵や民たちが反乱を起こすようになりました。
逆に真面目な節度使や観察使が派遣されて横領ができなくなると現地の将校が節度使を追放して反乱を起こすこともありました。
その代表が武寧(徐州)の将校・康季栄(こう・きえい)が起こした反乱です。康季栄は待遇の悪い兵たちによびかけて反乱を起こしましたが、康季栄は民から搾取していたので民の支持は得られず、康季栄の反乱は短期間で鎮圧されました。
節度使がよくても悪くても反乱は起こるのです。国が税の上前をハネるのを勧めているのですから横領がなくなるはずがありません。
しかし南部で反乱が相次いでいるのは唐にとっては問題でした。というのも安史の乱以降、唐を支えているのは南部の食料や経済だったからです。だから朝廷も必死になって反乱を鎮圧しました。
不老長寿にはまる皇帝
一方。晩年の宣宗は不老長寿に凝るようになり丹薬を服用していました。
大中13年8月10日(859年9月10日)。丹薬による中毒で死去。享年50歳。
宣宗の時代。王朝の衰退が一旦止まったように見えますが、唐の抱える問題を解決することはできませんでした。
宣宗の死後、さらに問題が起こります。
宣宗の死後
宣宗の長男・懿宗 李漼が即位しました。
宣宗の死から数ヶ月。
大中13年12月(859年)。浙東(浙江省)で裘甫(きゅうほ)という人物が民をまとめて反乱を起こしました。藩鎮の搾取に耐えられなくなったからです。1年で鎮圧されますが。この後も反乱が起こり、やがて唐は滅亡します。
宣宗の時代は唐が安定しているように見えた最後の時代です。
テレビドラマ
宮廷恋仕官 2021年、中国 演:郭軍
与君歌 2021年、中国 演:韓棟
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