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崔妃(広平王妃) 楊貴妃の姪っ子は母の実家が嫌い

4.4 隋・唐

崔妃(広平王妃)は唐の第12代皇帝・代宗の広平王時代の正室。

代宗の皇帝時代の妃・崔貴妃とは別人です。

代宗が皇帝になる前に死亡したので皇后の称号は与えられていません。

中国ドラマ「麗王別姫」では崔彩屏(さい さいへい)という名前で登場します。

母・韓国夫人 楊氏は楊貴妃の姉。母の実家・楊一族は玄宗にとり入り大きな権力を得ました。

崔妃は母の実家の力で皇子の妻になり、豊かな生活が出来るようになりました。とはいっても自分の実家(崔家)より母の実家(楊家)が強いのは気に入りません。お父さんより、叔母さんや親戚の方が偉そうにしているのはイヤでしょう。というわけで母の実家に嫉妬していました。

史実の崔妃(広平王妃)はどんな人物だったのか紹介します。

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崔妃の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

姓:崔(さい)
名称:不明
称号:広平王妃
父:崔峋
母:韓国夫人 楊氏
夫:広平王(後の代宗)

子供:
鄭王 李邈
召王 李偲

彼女は唐の代宗が皇子時代に結婚していた正妻です。

日本では奈良時代になります。

おいたち

母は楊貴妃の姉

博陵郡安平出身。

父の崔峋は皇室で秘書をしていました。

母の韓国夫人 楊氏は楊貴妃の姉。

韓国夫人と呼ばれていますが、朝鮮半島の韓国出身ではありません。古代には中国にも韓国という地域がありました。でも韓国という地域にゆかりがあるとか、出身地とかではありません。偉い人に贈られる単なる称号です。

伯母の楊貴妃が皇帝の寵愛を集める、母も便乗して宮廷に入り浸る

745年。唐の9代皇帝・玄宗は楊貴妃を寵愛するようになりました。

世界三大美人として有名なあの楊貴妃です。玄宗に気に入られている楊貴妃は都に姉や兄弟、親族を呼び寄せました。その中に後の韓国夫人と郭夫人がいました。

親戚の楊国忠(よう こくちゅう)は玄宗の側近になりました。

楊貴妃は玄宗の絶大な寵愛を集めています。韓国夫人と郭夫人は妹の権力を利用して自由に宮殿に入り、楊貴妃といっしょに気ままに暮らしました。

韓国夫人と郭夫人は皇室の親族よりも強い力を持っていました。伯父や親族も朝廷の高官になり、楊貴妃時代の唐の朝廷は楊一族を中心に動いていました。

広平王・李俶の妻になる

玄宗には孫の広平王(後の代宗)がいました。玄宗が広平王・李俶(りしゅく)の妻にふさわしいと思ったのは韓国夫人の娘でした。それだけ楊貴妃と韓国夫人楊氏の影響が大きかったのです。

746年。崔氏と広平王・李俶が結婚しました。盛大な結婚式が行われました。

その後、鄭王・李邈(り ばく)と召王・李偲(り さい)を出産。

李偲は皇太子・李亨(り きょう、後の粛宗)の養子になりました。
皇太子・李亨は広平王・李俶の父親です。すでに息子がいるのにさらに養子をとるのは異例です。

748年。母の楊氏に「韓国夫人」という称号が与えられました。

皇子の妻の母にふさわしい称号ということで贈られてのです。朝廷からも給料が支給されました。

母は楊貴妃の姉。楊一族は朝廷で大きな影響力を持っていました。しかし崔妃自身は母の実家の権力の大きさに嫉妬していました。

崔妃は父方の崔一族に親しみをもっていたようです。

安禄山の反乱で母が処刑

756年。重臣の安禄山が反乱を起こしました。安禄山はソグド人(ペルシャ系の民族)出身の将軍。玄宗のお気に入りの重臣でした。ところが安禄山は楊国忠と仲が悪く、楊国忠の陰謀で地方に飛ばされていました。

安禄山の反乱軍は長安を占領。玄宗は楊国忠の提案で都を出て楊国忠の領地に避難することになりました。楊貴妃や韓国夫人も一緒に逃げました。しかし玄宗の逃亡中に兵士たちが不満を爆発。反乱がおきたのは楊一族の横暴のせいだと言って楊一族の処刑を要求しました。

もはや玄宗には兵の要求を断る力はなく。母の韓国夫人、伯母の楊貴妃、親戚の楊國忠など、楊一族は処刑されました。失意の玄宗は退位しました。

皇太子の李亨(粛宗)が霊武(現在の寧夏回族自治区)で即位。

広平王・李俶も霊武にいる粛宗に合流。

崔妃も霊武に行きました。しかし、広平王・李俶の崔妃への寵愛は薄れていました。楊一族が原因で反乱が起きたので二人の仲も悪くなってしまったのです。

崔妃の母も処刑されました。崔妃自身のせいで反乱が起きたわけではありません。崔妃も楊一族にいいたいことはあったでしょう。でも、母・韓国夫人が楊貴妃のおかげで贅沢していたのは事実。その娘の崔妃への風当たりは強かったようです。

それに、もともと崔妃自身も嫉妬深く傲慢な女性でした。広平王・李俶との仲が悪くなったのは彼女の性格のせいもあったかもしれません。

粛宗はウイグルの力を借りて反乱軍討伐を行いました。

広平王・李俶も父・粛宗とともに反乱軍討伐に参加します。

757年。広平王・李俶は長安を反乱軍から取り戻すことに成功しました。

崔妃は長安に戻りました。

ところが、その年の間に死亡しました。死因は不明です。

都に戻ったその年に死亡しているので何かあったのかもしれませんね。

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