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則天武后(武則天)は唐高宗を操り国を動かした

とう 5.2 隋唐の皇后・側室

則天武后(武則天)は中国史上唯一の女帝。中国三大悪女の一人ともいわれます

則天武后(武則天)は14歳のとき太宗 李世民の後宮に入宮。「武媚」の名を与えられましたが、寵愛は受けていません。太宗の死後、武媚は他の妃嬪とともに寺に入れられました。

ところが高宗に呼び戻され側室になりました。

武媚が高宗の後宮に入るまで高宗の寵愛を集めていたのは蕭淑妃でした。

武媚は最世は王皇后に従順に従っていました。武媚、王皇后と蕭淑妃は互いにいいあらそい。うんざりした高宗から蕭淑妃の寵愛を失わせることに成功。

すると武媚は王皇后を陥れようとしました。自分の子供の死を利用。それでだめなら王皇后の母が呪いをかけたと訴え。もともと王皇后が好きではなく、外戚の力を抑えたいと思っていた高宗は王皇后を廃位して、武媚を皇后にすると決定しました。

そこまでの詳しい経緯はこちら。

武則天が 太宗の後宮に入って高宗の皇后になるまで

 

今回は武皇后の誕生から皇太后になるまでを紹介します。

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王皇后と蕭淑妃を処刑

王氏と蕭氏を処刑

王氏が投獄された後。さすがに高宗は気の毒になったのか、獄中の王氏に会いに行き「皇后はどこだ?どこにおる?」と呼びかけると。王氏は「私は罪人となった身です。そのような尊い身分ではもうありません」とすすり泣きました。「陛下。私が生まれ変わって再び太陽や月を見られるように祈ってください」とお願いします。高宗は「そうしよう」と約束しました。

武昭儀はその話を聞くと怒って王氏(元皇后)と蕭氏(元淑妃)を杖刑100回にしました。

その後、王氏と蕭氏が生き返らないように手足を切断して酒瓶に入れ「二人の婆婆を骨まで酔わせてしまえ」と命令。数日放置しました。その後、武昭儀が見たときには王氏と蕭氏は死亡していました。二人の髪には血がこびりついていて気持ち悪くなった武后は祈祷をさせて悪霊祓いをした後。宮殿を出て東都(洛陽)に移り住みました。「旧唐書」

この話は漢の劉邦の正室・呂后(こちらも中国三大悪書のひとり)の話に似ています。呂后は側室の戚夫人の手足を切断して便所に置いて「人豚」と呼ばせました(排泄物が落ちる所に豚を飼っていて、豚に食べさせていてたから)。

中国の歴史書にはこういうパターン化された誇張話がよく出てきます。

でも中国には日本人では考えられない残酷な殺し方があるのも事実。「凄い女性が非常に残酷な処刑をした」と言いたいのでしょう。

王氏の母・柳氏と家族、蕭氏の家族は流罪になりました。

武則天は二人を残酷に処刑した後。長安の宮殿が嫌になって洛陽で暮らしたと書かれています。

これは高宗が行った洛陽を東の都、長安を西の都にする制度の由来を武則天にこじつけているのでしょう。

 

武皇后の時代

11月。正式に皇后になりました。

亡き父には司空(宰相)。の爵位が与えられました。母の楊氏には応国夫人、後に代国夫人。の称号が与えられました。

古い重臣を粛清

高宗と武后は最も反対していた宰相の褚遂良を追放しました。

657年(顕慶2年)から659年(顕慶4年)にかけて。高宗と武后は長孫無忌、於志寧、韓瑗、來濟たちを左遷。地方にとばしました。長孫無忌には左遷後も弾劾が続き、長孫無忌は現地で自害しました。

高宗と武皇后は自分たちに批判的な人物をことごとく追放、処刑しました。高宗は親の代からの古い重臣を排除、独裁的な体制をととのえていきます。

高宗が病気になり武則天の政治参加が始まる

660年(顕慶5年)。高宗は風邪をこじらせ。めまいがひどくなって政務を行うことが難しくなってきました。そこで武皇后に政治を任せるようになってきました。

661年(龍朔元年)正月。武皇后は女性が俳優(中国で俳優とは身分の高い人を笑わせるために面白おかしいパフォーマンスをする芸人のこと)として出演するのを禁止するよう高宗に要求。高宗は武皇后の意見を採用しました。

4月。高宗が高句麗に遠征しようとしたので武皇后や重臣たちが止めるように説得。高宗ぬきで高句麗へ軍を派遣しました。

廃皇后の危機を阻止

武皇后は最初は高宗の指示に従っていました。

ところが武皇后はしだいに高宗のいいなりにはならなくなります。武皇后の影響力が大きくなり、高宗のやりたいことができなくなってきました。

武皇后はそれまで出世できずにいた人たちの中から自分に賛成する役人を積極的に採用。名門出身官僚や儒学者たちに対抗させ。武皇后は密告制度を作り自分に都合の悪いものには弾劾を起こさせ処分していきました。

高宗が古い重臣を排除するために使った方法を武皇后は自分の影響力を強めるために使いました。

664年(麟徳元年)。あるとき武皇后は道士の郭行を宮中にまねいて厭勝(人や悪魔を抑え込んで従わせたり、勝つための呪術)の儀式を行わせました。内官の王伏が高宗に報告。それを聞いた高宗は怒りました。

すると宰相の上官儀が高宗に「皇后は独断がすぎます。天下は陛下のものです。ここは皇后を廃するべきです」と訴えました。高宗も近頃の武皇后のやり方には嫌気がしていたので武皇后を廃する勅書を作らせました。すると侍従が武皇后に報告。

武皇后は高宗の所にやってきて怒り出しました。問い詰められた高宗は彼女をなだめようとしましたが武皇后の怒りがおさまりません。高宗は「上官儀にそうするように言われたのだ」と責任をおしつけました。

武皇后の廃位は中止。上官儀と王伏は処刑されてしまいます。上官儀と親しかった役人たちも左遷されました。

二聖とよばれる

それ以来、高宗が政務を行うときには武皇后が御簾の裏にいて政務を聞くことになりました。

人々は高宗と武皇后をあわせて「二聖」と呼ぶようになりました。

麟徳2年(665年)。武皇后は高宗の治世がますます栄えるように泰山に登り封禅の儀式を行うように勧めました。高宗は封禅を決定しました。

封禅は皇帝がまず神にお供えものをして次に臣下がお供物をします。でも武皇后は、封禅は大地の神に祈る儀式なので皇太后が参加するべき、そして自分も参加すると主張しました。高宗は母のためだと思ってそれを認めました。

672年(咸亨3年)。武皇后は2万貫の費用を投じ、洛陽の龍門石窟に大仏を掘らせました。プロジェクトは3年9カ月かけて完成しました。

天后になる

674年(上元元年)。皇帝・皇后の称号を、天皇(てんこう)・天后(てんごう)に変更しました。武后(武則天)の考えが働いたといわれます。

武后は高宗に12の建言を行いました。高宗はすべて採用しました。武后は農業生産を重視し、各州・郡で「田畑を耕し、多くの食糧を得た者」は褒美を受け。田畑を捨てて逃げた者は処罰することにしました。

皇太子を処分する武后

675年(上元二年)。皇太子にの李弘が24歳で急死しました。

李弘は武后の実子ですが、自分がよいと思ったことは母に逆らってでも発言する人物でした。武后は一族を採用。政治を自分に従うもので動かしていこうとします。皇太子の李弘はそんな母と一族の横暴を批判していました。そのため武后に毒殺されたといわれます。

代わりに皇太子になったのは李賢でした。高宗と武后の息子です。

病が重くなった高宗は武后を摂政にしようとしました。すると宰相の郝處俊が反対。

武后は文人や学者を集め、様々な書物を出版させました。彼ら学者を政治に参加させ。宰相の力を弱めていきます。彼らは「北門の学者」とよばれ、政治からは遠ざけられていた人たち。武后は彼らを味方にしていました。

武后によって政敵が排除されていき、武后に忠誠を誓うものや武后の親族が採用されました。

679年(調露元年)。皇太子・李賢の家から武器が出てきて、武后は李賢が謀反を企んでいると主張。武后は皇太子の李賢を廃するように高宗に要求しました。

李賢は廃されて庶人になり。李顕(後の中宗)が皇太子になりました。彼も高宗と武后の息子です。

高宗の最期

弘道元年(683年)。高宗の病気が重くなったので、皇太子の李顕が代理聴政を行ない、裴炎、劉齊賢、郭正が皇太子の補佐をするように命令しました。

12月27日。高宗は病が悪化して洛陽の紫微宮で死去しました。享年55。

高宗の息子、李顕が即位して中宗になりました。

武后は皇太后になりました。

高宗は確かに武后には弱いところのある皇帝でしたが、武后も好き勝手できたわけではありません。高宗と武皇后の立場は対等でした。重臣の反対でできなかったこともあります。

でも中宗は武太后の息子です。高宗よりも立場は弱いです。
武太后を止める人はもういません。

 

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