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張皇后(唐粛宗)とは唐時代最後の権力をもった皇后だった

とう 5.2 隋唐の皇后・側室

張皇后は唐の第10代皇帝 粛宗・李亨(り・きょう)の皇后。

粛宗が皇太子時代は張氏は側室でした。

張氏は安禄山の反乱では玄宗や皇太子だった李亨とともに長安から避難。その後は討伐軍を率いる皇太子・李亨は玄宗と行動を別にして討伐軍を率いることになりますが。張氏は長安に戻るように李亨を説得したひとりです。

粛宗が即位後は皇后になります。

張皇后は宦官の李輔国たちとともに政治に関わり、朝廷を動かしました。

建寧王・李倓の処刑に関わったり。

粛宗が重病になると、皇太子・李豫を亡き者にして自分の思い通りになる皇子を次の皇帝にしようとしました。

史実の張皇后はどんな人物だったのか紹介します。

 

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張皇后の史実

プロフィール

生年月日:不明
没年月日:762年

姓:張(ちょう)氏
名:不明
父:張去逸
母:不明
夫:粛宗・李亨(り・きょう)

子供:
 興王 李佋
 定王 李侗

 

日本では奈良時代になります。

おいたち

張氏の家族は、南陽郡西鄂県に住んでいました。後に昭應県(現在の陝西省西安市)に移住しました。

父は金吾将軍の張去逸。

祖母は玄宗の生母・竇徳妃(昭成皇后)の妹です。

玄宗は竇徳妃(昭成皇后)の妹から可愛がられていました。

張氏の生年は不明。

皇太子の側室になる

天宝年間(742年~756年の間)。入宮できる年齢になると、祖母の推薦で皇太子・李亨(り・きょう、後の粛宗)の側室になりました。

このとき李亨にはすでに太子妃の韋氏、側室の杜良娣がいました。良娣とは皇太子の側室の最高位です。

張氏にも良娣(側室)の称号が与えられました。「張良娣」とよばれました。

李亨の妃の中では3番めの地位です。

746~747年にかけて宰相の李林甫と彼の政敵との間で争いが起こりました。その政争の中で韋氏と杜氏の家族が失脚。

反逆者の烙印をおされた一族との縁を切るため李亨は韋氏を離縁。杜氏を庶人に落としました。

張氏のライバルがいなくなりました。
張氏の地位は「良娣」でしたが。事実上の正妻の地位を手に入れました。

張良娣は美人でスタイルもよかったので李亨にとても愛されました。
頭がよく、言葉も巧みでした。

張良娣の弟・張清娶は玄宗の五女・大寧郡主と結婚。
もうひとりの弟・張潛娶は延和郡主と結婚しました。

皇帝一家とは縁の深い家だったようです。

753年。李佋(後の興王)を出産。
755年。娘を出産。張良娣の娘がどうなったのかはよくわかっていません。759年ごろまでは生きていたようですが、その後の記録がありません。

楊一族粛清の裏に張氏の影

755年。安禄山が反乱を起こしました。

玄宗は主な妃と子や孫をつれて都を脱出。

皇太子・李亨も玄宗と一緒に都を離れました。

このとき李亨に同行したのは張氏でした。

玄宗と李亨は長安を離れて蜀へ向かうことにしました。同行した人たちが長安に帰りたいと言っても玄宗や李亨は聞き入れません。宦官の李輔国が自分のプランを張良娣に相談。張良娣は李輔国の考えを絶賛しました。

馬嵬のあたりにきたとき。玄宗に同行していた兵たちが反乱を起こして楊国忠一族が粛清されます。このとき「安禄山の反乱が起きたのは楊国忠のせいだ」と批判、兵達を煽ったのが建寧王・李倓と宦官の李輔国です。

このとき楊国忠と一緒に楊貴妃たちも処刑されます。張良娣も楊一族の粛清を認めたことになります。

その後、玄宗は蜀に向かいました。でも李亨は李輔国や張良娣の意見を採用して北に向かい、安禄山討伐軍を率いました。

その後。長安に戻った李亨は粛宗に即位します。その裏には李輔国や張良娣の働きかけがあったのです。

 

粛宗の時代に皇后になる

756年。長安に戻った粛宗(李亨)が即位。張良娣は淑妃になりました。

張氏の父親・張去逸には太僕卿の爵位と左僕射の職が。
母親・竇氏は義章縣主
姉で李曇の妻は清河郡夫人
妹の張師師には郕國夫人の称号が与えられました。

757年。この頃よりも前に李侗(後の定王)を出産しました。

757年。建寧王・李倓が弟の広平王・李豫を謀っていると讒言し、粛宗はその讒言を聞いて建寧王・李倓を処刑しました。

758年。張氏が皇后になりました。

張皇后と李輔国は、広平王・李豫を皇太子にしました。

張皇后は粛宗の寵愛を独占しました。

張皇后は政治的にも野心があったので、宦官の李輔国たちと組んで朝廷の政治を思うように動かしました。

安史の乱で混乱した唐は皇帝の権威が落ちて、宦官たちが朝廷の発言力を大きくしていました。そこに張皇后が政治に付け入るスキがあったのです。

760年。張皇后と李輔国は、玄宗上皇が復位するのを阻止するため。粛宗に訴えて玄宗上皇を西宮に移して軟禁状態にしました。玄宗の信頼が厚い宦官の高力士たちが失脚します。

粛宗は不満でしたが、張皇后や臣下たちに押し切られてしまいます。

 

皇太子・李豫の殺害を計画

762年。粛宗が重病になりました。

後継者をめぐって張皇后と李輔国は意見が分かれてしまいます。

皇太子・李豫は張皇后の息子ではありません。

張皇后は自分の息子を皇太子にしたかったのですが、李佋と李侗は早世していたり幼少だったりと、皇太子にはなれません。

そこで李豫の弟の越王・李係に目をつけます。

張皇后は馬英俊らと共謀して、皇太子の李豫(後の代宗)と李輔国を殺害して越王・李係を皇太子にしようとしました。

ところが張皇后の計画は李輔国に気づかれてしまいます。

李豫を次の皇帝にしたい李輔国は、先に挙兵して張皇后と仲間たちは捕らえられました。張皇后は廃位されて幽閉されました。越王・李係、馬英俊たちは処刑されました。

その後、張廃皇后は殺害されました。

張皇后は唐時代最後の権力を持った女性

 

唐時代の悪女といえば楊貴妃が有名です。楊貴妃は一族の横暴は目に余りましたが、楊貴妃本人は贅沢はしましたがそれ以上の悪事は働いていません。

でも張皇后は皇子を処刑させたり、皇太子を殺そうとしたり、玄宗上皇を幽閉したりしています。本当の悪女は張皇后かもしれません。

でも唐の時代には張皇后を最後に政治的発言力をもった皇后がでなくなりました。

宦官や臣下の力が強くなって皇帝の権力が小さくなったこと(その結果、皇帝に影響を与える皇后・妃嬪や皇太后の影響力も小さくなります)。科挙で採用された臣下が増えて儒教の影響が強くなり女性の発言力が下がったからです。

それは世界中から人・物・文化が集まる開放的で国際的な大帝国だった唐が、閉鎖的な中華王朝に移り変わる時代と重なります。

 

テレビドラマの張皇后

 

麗王別姫 2016年、中国 演:劉威葳

史実でも李倓を死に追いやった人物なので、ドラマでは典型的な悪役として描かれています。

李倓だけでなく、ヒロイン・沈珍珠や李俶の敵という設定。沈珍珠たちを何度も苦しめます。

史実と同じように李倓の殺害にも関わります。

史思明と不倫するのはドラマオリジナルの設定。史思明との間に生まれた子を太子・李亨の子と偽ったり。沈一家の殺害にも関わったり。

史実よりもさらに凶悪さがパワーアップしてます。

 

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