スポンサーリンク

独孤貴妃は代宗(唐)の寵愛を集め死後に貞懿皇后になった

4.4 隋・唐

貞懿独孤皇后は唐の代宗の側室。

生前は独孤貴妃と呼ばれていました。死後「貞懿皇后」の称号を与えられましたので、生前に皇后になったのではありません。

ドラマ「麗王別姫」では独孤靖瑤(どっこ せいよう)の名前で登場します。ドラマでは「美しい女傑」みたいな紹介のされ方をしていますが、実在の独孤貴妃は将軍ではありません。

代宗の寵愛を集めた美しい側室でした。

史実の貞懿独孤皇后はどんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

独孤貴妃の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:775年6月12日

姓:独孤
名称:不明
称号:貞懿皇后(追尊)
地位:貴妃
父:独孤穎
母:不明
夫:代宗

兄:獨孤良佐

子供:
李迥(韓王)
華陽公主

彼女は唐の第11代皇帝・代宗の側室。

日本では奈良時代になります。

祖先は独孤信の家来だった

貞懿独孤皇后の一族は「京兆独孤氏」

祖先はモンゴル高原にいた遊牧民族の鮮卑です。北魏では拓跋氏に仕えていました。隋の楊堅、唐の李淵も鮮卑系です。

北魏が漢人の文化を取り入れたときに「李」の姓を名乗りました。それ以前はどの姓を名乗っていたのかはわかりません。

その後、北魏は東と西に分裂。東魏に仕えていた「李屯」という人物が西魏の「独孤信」と戦って破れました。しかし独孤信に実力を認められ独孤家に仕えます。そして「独孤」の姓を与えられました。

それ以来、一族は「独孤」の姓を名乗りました。独孤信の一族と区別するために「京兆独孤氏」と呼ぶ事もあります。

独孤信は北周の将軍。ドラマ「独孤伽羅」に登場しますね。独孤伽羅姉妹の父親です。ちなみに独孤信は匈奴出身。匈奴といえばかつて漢帝国を苦しめた北方の騎馬民族です。独孤信は匈奴に内紛がおきたので一族を率いて鮮卑に亡命。拓跋・宇文氏に仕えました。

ドラマの独孤靖瑤が女傑になっているのは、勇猛果敢な独孤一族のイメージがあるせいかもしれませんね。独孤靖瑤自身は独孤信の子孫ではないのですが。

貞懿独孤皇后のおいたち

父の独孤穎は唐王室の左威衛録事参軍。都を守る下級の武官でした。独孤貴妃は独孤穎の長女として生まれました。生年はわかっていません。

母親の名は不明。

時期はわかりませんが、広平王・李俶(り しゅく、後の代宗)の妾になりました。

750年。息子の李鄭(り てい)が生まれました。

755年。安禄山の反乱のあと、広平王・李俶の正妻・崔氏の母の実家が没落。その後、崔氏も死亡しました。

その後は独孤氏が広平王・李俶の寵愛を集めました。

758年。李俶が皇太子になりました。

761年。息子の李迥が、粛宗から「皇太子第三男」の地位を与えられました。

代宗の時代

762年。李俶が即位しました。

息子の李迥には韓王の称号が与えられました。李迥は12歳。王の爵位を与えるには幼いですが、母親の独孤氏が寵愛を集めていたからだといわれます。

768年。独孤氏は貴妃になりました。側室では最高の地位です。

独孤貴妃の娘の華陽公主は代宗から非常に可愛がられました。

ところが774年に華陽公主が死亡してしまいます。代宗は非常に悲しみました。

翌年。775年。独孤貴妃も死亡しました。

代宗は独孤貴妃に「貞懿皇后」の称号を与えました。代宗は独孤貴妃を失った悲しみがあまりにも大きく、3年間、棺を宮殿の外に出すことができませんでした。3年後、独孤貴妃の棺は埋葬されました。

ドラマ「麗王別姫」に登場する獨孤靖瑤(どっこ せいよう)は歴史上の独孤貴妃とはかなり違います。歴史上の独孤貴妃は将軍ではありません。紆余曲折はあったものの、獨孤靖瑤は李俶の妃にはなりました。ドラマの最後では、沈珍珠は獨孤靖瑤に李俶を託して去っていきますので、最後は辻褄をあわせた形になってます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました