代宗 (唐)李俶は唐を立て直そうとしたが宦官に悩まされた皇帝

2019年2月5日

出典:楽天市場

李 俶(り しゅく)は唐の第11代皇帝。代宗ともよばれます。

安史の乱で都の長安を離れますが、混乱の最中に父が皇帝に即位。李 俶は反乱軍討伐のため戦いました。父の死後、皇帝に即位します。

史実の李俶はどんな人物だったのか紹介します。

代宗・李 俶の史実

生年月日:726年
没年月日:779年

本名:李 俶(り しゅく)
諡:睿文孝武皇帝
廟号:代宗
父:粛宗
母:呉夫人
正室:崔貴妃
妾:沈珍珠(追尊:睿真皇后)
独孤貴妃(追尊:貞懿皇后)
昭儀 張紅紅
才人 薛瓊瓊

子供:李适(徳宗)など。

代宗は唐の11代皇帝です

日本では奈良時代になります。
孝謙天皇とほぼ同世代。同じ時代に生きた人物は吉備真備、阿倍仲麻呂です。

おいたち

726年に産まれました。父は皇太子の李亨(りきょう)。後の10代皇帝・粛宗です。

母は呉氏。名家の貴族でしたが、実家は謀反の疑いで粛清されました。

謀反人の一族というレッテルを貼られて育った李俶(りしゅく)でしたが、祖父の玄宗に優秀さが認められ、広平王に取り立てられました。

741年。宮殿に良家の評判のよい娘たちが集められました。宮廷に仕える宮女(侍女)を選ぶためでした。その中に沈珍珠もいました。

安史の乱

755年11月。安史の乱が起こります。年が明けて首都・長安に反乱軍が迫ってくると祖父・玄宗(げんそう)、父・李亨(りきょう)とともに都を脱出しました。この混乱で沈珍珠とは離れ離れになってしました。

馬嵬(現在の陝西省興平市)のあたりで、兵たちが楊一族の横暴のせいだと騒ぎ出しました。そこで楊国忠と楊貴妃を処刑しました。その後、玄宗は蜀へ避難しました。

李俶(りしゅく)は父の李亨とともに反乱軍を鎮圧するため北へ向かいました。李俶たちは節度使(地方を守る軍)のいる霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)に到着。側近の李輔国の進言で李亨が皇帝に即位、粛宗になりました。玄宗の許可は得ていませんでしたが、反乱で既に力を失っていた玄宗は事後承認するしかありませんでした。玄宗は上皇になります。

李俶(りしゅく)は兵馬大元帥に任命されました。粛宗は兵を整えて反乱軍を討伐します。

757年。安禄山が息子の安慶緒に殺される事件がおこります。李俶(り しゅく)は節度使の郭子儀(かく しぎ)とともに安慶緒(あん けいしょ)に占領されていた洛陽と長安を取り戻しました。李俶(り しゅく)は沈珍珠と再開しました。

758年。李俶(り しゅく)は皇太子になりました。皇后の張氏、宦官の李輔国が李俶(り しゅく)を支持していました。

579年。安禄山の一味、史思明が洛陽を襲撃。洛陽は陥落し沈珍珠は行方不明になりました。

561年。反乱が鎮圧され洛陽は平和になりましたが、沈珍珠は見つかりません。

皇帝時代

762年。粛宗、玄宗が死去。李俶(り しゅく)が即位、代宗になりました。

宦官の李輔国が朝廷の権力をもっていました。自分の発言力を高めたいと思った代宗は、宦官の程元振を採用して李輔国を謀反の疑いで処刑しました。しかし結局は程元振が権力を手にしました。そこで魚朝恩を採用しましたが、結局は魚朝恩が権力をてにしました。

代宗は粛清を繰り返したものの宦官が力を持つのは変わりませんでした。

763年。吐蕃(チベットにあった国)に攻撃され長安を奪われてしまいます。

その混乱の最中に宦官達によって李承宏が皇帝にさえてしまうという事件がおきました。宦官達が政治を支配していたため武官の待遇が悪くなり国境を守ることができなくなったのが原因でした。1ヶ月足らずで代宗は皇帝の座を取り戻しましたが、宦官達の力の大きさは代宗を悩ませました。

それでも代宗は悪くなった経済を立て直すため、塩の専売制度など様々な改革をはじめました。でも代宗の時代には弱体化した唐を立て直すことはできませんでした。

一方、帝位についている間も代宗は沈珍珠のことがわすれられず、皇后の地位をあけたまま即位しました。代宗には他にも後宮に貴妃獨孤氏がいましたが皇后にはなれませんでした。代宗の沈珍珠への愛情は別格だったようです。

779年。代宗が死去。

息子の李适が即位。徳宗になりました。

父の粛宗は宦官たちによって皇帝にまつりあげられたため宦官の影響力からは逃れられませんでした。宦官が政治を動かす原因になってしまいました。後の李俶が皇帝になっても宦官が力をもつことはかわりません。宦官達によって支配された唐はやがて弱体化していきます。

4.1 唐

Posted by Fumiya


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