沈珍珠 唐に実在した幻の皇后

2019年2月5日

(出典:楽天市場)

麗王別姫のヒロイン「沈珍珠」は唐の時代に実在した人物。
11代皇帝・代宗の愛人で12代皇帝徳宗の生母です。

珍珠は本名ではなく愛称です。真珠のように美しかったことから「珍珠」と呼ばれました。中国語では真珠は「珍珠」と書きます。

沈珍珠は広平王(後の代宗)の妾室でしたが唐の国を混乱に陥れた安史の乱で行方不明になりました。その後は夫の代宗や息子たちが探しましたがみつかりませんでした。

後に夫や息子が皇帝になったことから本人がいないまま睿真皇后の称号が与えられました。

幻の皇后といわれるミステリアスな存在です。

史実の沈珍珠はどんな人物だったのか紹介します。

沈珍珠の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:不明

通称:沈珍珠(しん ちんじゅ)
本名:沈媛(しん えん)
称号:睿真皇后(えいしんこうごう)
父:沈易直
母:
夫:李俶(代宗)

子供:李适(徳宗)

彼女は唐の11代皇帝・代宗の妃です

日本では奈良時代になります。
孝謙天皇とほぼ同世代。同じ時代に生きた人物は吉備真備、阿倍仲麻呂です。

おいたち

出身は名家のお嬢様

本名は沈媛。

沈氏は地方の名家。父の沈易直は秘書監(秘書のトップ)、宮廷図書館の所長などを務める朝廷の高官でした。

741年。玄宗の時代。宮殿に良家の評判のよい娘たちが集められました。宮廷に仕える宮女(侍女)を選ぶためでした。その中に沈珍珠もいました。

皇太子の宮殿で侍女になる

沈珍珠は皇太子の李亨(後の粛宗)の宮女に選ばれました。

当時、李亨には息子の李俶(のちの代宗)がいました。当時の李俶は広平王とよばれていました。

広平王・李俶の側室になる

どうやら李俶は父の宮殿で侍女として働いていた沈珍珠を気に入ったらしく、李俶は沈珍珠を自分の侍女にしました。沈珍珠はすぐに広平王のお気に入りの妾になります。そのときに沈珍珠という愛称を与えられました。名前の「珍珠」とは「真珠」という意味です。

沈珍珠の生年はわかっていません。このとき10代後半だったとすると沈珍珠の生年は722~727年になりますね。

742年。長男の李适(後の徳宗)が産まれます。

当時の唐では玄宗皇帝の寵愛をうけていた楊貴妃は一族を要職に就かせていました。

玄宗は韓国夫人の娘・崔氏を李俶の正室に決めました。李俶としては沈珍珠が気に入っていたのですが祖父の皇帝の命令なので逆らえません。しかも崔氏は嫉妬深い性格だったらしく、沈珍珠の宮廷暮らしも楽ではなかったでしょう。

755年。楊一族と安禄山の対立が激しくなり安史の乱が起こります。

広平王と生き別れ

皇帝達は都を捨てて逃げましたが、置き去りにされた皇族や宮中関係者もいました。沈珍珠も取り残され戦争の混乱で広平王とは離れ離れになってしまいました。

沈珍珠は安禄山の兵に捕まってしまいます。

困難のさなか広平王の父・粛宗が即位しました。

757年。広平王は父・粛宗ともに洛陽を取り戻しました。沈珍珠は救出され、広平王と再開しました。

しかし反乱はまだ続いていました。長安は危険だと言うので沈珍珠は洛陽にとどまることになりました。

758年。広平王が皇太子になります。

再び生き別れ

579年。安禄山の一味、史思明が洛陽を襲撃。洛陽は陥落し沈珍珠は行方不明になりました。

561年。反乱が鎮圧され洛陽は平和になりましたが、沈珍珠は見つかりませんでした。その後の消息は不明です。

代宗時代

562年。広平王が即位、代宗になりました。代宗は沈珍珠のことがわすれられず、皇后の地位をあけたまま即位しました。代宗には他にも後宮に貴妃獨孤氏がいましたが皇后にはなれませんでした。広平王の沈珍珠への愛情は別格だったようです。

779年。代宗が死去。息子の李适が即位。徳宗になりました。

息子の徳宗時代

徳宗は沈珍珠の息子です。母の沈珍珠に「睿貞皇太后」の称号を贈りました。徳宗も母のことがわすれられず沈珍珠を探しましたが見つかりませんでした。

高力士の娘という娘が沈珍珠なのではないかと噂されましたが、調べたところ別人でした。

その後も沈珍珠が見つかったという噂もありましたが全て偽物でした。偽沈珍珠事件が何度か起きています。唐の国ではそれだけ関心が高かったようです。

孫の順宗時代

805年。徳宗が死去。順宗が即位しました。順宗は沈珍珠の孫です。
順宗も祖母を探しましたが見つかりませんでした。

やがて捜索は打ち切られ、陵墓が造られました。もちろん本人のいないお墓です。

4.1 唐

Posted by Fumiya


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