楊 爽:隋文帝 楊堅の弟は死霊の祟りで死んだ?

隋1.3 南北朝

楊 爽(よう そう)は北周~隋の時代の武将。

隋初代皇帝・楊堅の弟です。

末弟で20歳近くも歳が離れていました。そのため楊爽の活躍は隋の建国後に集中します。隋建国後の突厥との戦いでは指揮官をつとめました。ところが若くして病気で死亡してしまいます。病に倒れた楊爽に文帝楊堅は呪術者を派遣しました。すると鬼(死霊)のせいで病気になったと言われお祓いをするのですが、お祓いの効果なく死亡してしまいます。

楊 爽とはどのような人だったのでしょうか?

楊 爽の史実

生年月日:563年
没年月日:587年

漢姓:楊(よう)
鮮卑姓:普六茹(ブルスカン)
名:爽(そう)
字:師仁
幼名:明達

国:北周→隋
地位:
称号:
父:楊忠
母:呂苦桃
妻:順陽公主 宇文氏

子供:楊集 

日本では飛鳥時代になります。

北周の時代

563年。楊忠の五男として生まれました。末っ子です。
母は呂苦桃。後に隋皇帝になる楊堅の同母弟です。

兄の楊堅とは21歳も年が離れています。

父・楊忠が功績をあげたので幼いながら 同安郡公 の爵位を与えられました。中国では親の七光りは当たり前です。

6歳のとき。父・楊忠が死亡。母の呂苦桃に育てられました。

歳をとってからの末っ子だったこともあって大変可愛がられました。

17歳のとき内史上士となりました。

580年。楊堅が北周の丞相になりました。兄・楊堅は北周の権力のトップにたちました。

このころ楊堅は皇帝になろうと計画していました。

身近なものを高い地位にとりたてます。このころ楊爽も急激に出世しました。

楊爽は大将軍・秦州総管に任命されました。さらに蒲州刺史になって柱国大将軍に出世しました。

わずか17歳での将軍(軍団の司令)です。

隋の時代:兄の楊堅が皇帝になる

581年。兄・楊堅が反乱をおこして北周・静帝から皇帝の座を奪いました。

北周が滅亡。隋が建国しました。

兄の楊堅が隋の皇帝になったのでさらに出世します。

衛王になりました。まもなく雍州牧になり、左右将軍を兼ねました。

右領軍大将軍、并州総管になりました。

582年。上柱国になりました。柱国将軍のさらに上の位。隋のトップクラスの重臣です。

楊爽は行軍元帥になりました。

突厥(テュルク)と戦う

隋建国後。かつて北斉の重臣だった高保寧が反乱をおこしました。反乱軍は突厥と結託して国境の北付近を荒らしました。

突厥(とっけつ)はテュルク系遊牧民族が作った国。モンゴル高原を中心に北アジアの広い地域を勢力範囲におさめる大国でした。華北では北周と北斉に分裂していたので突厥には対抗できませんでした。突厥は華北が分裂しているほうが都合がいいので反乱勢力に協力していたのです。

文帝・楊堅はバラバラだった華北の勢力をまとめて突厥に対抗しようとします。

楊爽は7万の兵を率いて平涼に進みましたが、突厥軍と出会うことはありませんでした。戦わずに戻ってきました。

583年。文帝・楊堅は突厥への大規模な反撃作戦を決定。

楊爽は元帥になりました。河間王 楊弘・豆盧勣・竇栄定・高熲・虞慶則たち将軍が楊爽の命令をうけて突厥軍と戦いました。

楊爽も李充節ら4将を率いて朔州に出陣。突厥の沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と白道で戦い撃破しました。沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)は重傷をうけて逃走しました。

文帝・楊堅は戦勝を喜びました。楊爽に梁安県の1000戸を領地として与えました。

その後、突厥は東と西に分裂。まとまりがなくなった突厥は隋に対抗できなくなりました。

東突厥の沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)は契丹と西突厥にはさまれ危なくなり、西突厥の阿波可汗(アパ・カガン)に東突厥の中心地・ウテュケン山麓を占領されてしまいます。ウテュケン(現在のモンゴル・ハンガイ山)は、突厥・モンゴル系遊牧民にとって最高の場所とされる所。ウテュケン山麓に広がる草原は良質な牧草地帯になっていて、歴代の可汗(カガン=王)が本拠地を置いていました。

沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)は仕方なく隋に救援を求めてきました。そこで文帝 楊堅は援軍を送ることにしました。

586年。楊爽は再び元帥になって、15万の兵を率いて出陣。阿波可汗(アパ・カガン)は隋の軍が近づくと西に逃げました。楊爽は東突厥の中心地・ウテュケン山麓を焼き払いました。

ウテュケンは3ヶ月にわたって燃え続けたといいます。その惨状は突厥の人びとにとっては恐怖だったらしく。突厥の子供は、母親が「楊爽が来るよ」と言うと泣き止むほどだったといいます。

587年。納言になりました。

死霊の祟り?で死亡

しばらくすると楊爽は病気になって寝込んでしまいます。

文帝・楊堅は巫者(呪術師)の薛栄宗を派遣して楊爽を見させました。

遊牧民や狩猟民はシャーマニズムを信じています。鮮卑の人びとは漢の文明に憧れ仏教や儒教を取り入れました。それでも呪術への信仰はなかなか廃れませんでした。中国にも道教という呪術がありますから、違和感なく取り入れたかもしれません。

薛栄宗は多くの鬼(死者の霊)が病気の原因だと判断しました。楊爽は側近たちに死霊を祓わせました。楊爽はいったい誰の恨みをかったというのでしょう。楊爽には心当たりがあったのでしょうか?戦場やオテュケンで殺した大勢の突厥人の死霊だというのでしょうか?

その数日後。祈祷を行った薛栄宗が鬼(死霊)に襲われ、階下に逃げたところで倒れて死亡したといいます。

楊爽もその日のうちに死去しました。享年25。

現代的に考えれば、楊爽や薛栄宗の死因は伝染病でしょう。とくに長距離を移動する騎馬遊牧民は疫病の媒介になりやすいです。でも当時の人びとっては疫病は死者の祟り、精霊の怒りです。皇帝の弟ですから名医が呼ばれたでしょう。でも効果がなかった。たぶん皇帝の弟を治せなかった医師は処刑されたかもしれません。薬が効かないとなれば呪術に頼るしかなかったのでしょう。

死後。太尉・冀州刺史の位が与えられました。

子の楊集が後を嗣いだ。

TVドラマ

独孤皇后 2019年、中国 演:少年・劉奇、成年:劉哲琿
 残念ながら?ドラマに死霊の祟りを信じてたという演出はありません。ドラマでは楊広(後の煬帝)との間にトラブルがおきて殺害されます。

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