PR

赫連皇后(太武皇后) 匈奴の王女から鮮卑の皇后に

6.1 北朝・魏・周・斉

赫連皇后(かくれんこうごう)は北魏の皇后。

第3代皇帝・太武帝の正室です。

おくりな(諡号)は「太武皇后」。

歴史上は太武皇后と呼ばれることが多いです。

史実の赫連皇后はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

赫連皇后(太武皇后)の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:453年

姓:赫連(かくれん)
名称:不明
称号:太武皇后(たいぶこうごう)
父:赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ)
母:不明
夫:太武帝(北魏皇帝)

彼女は第3代皇帝・太武帝の正室です。

日本では古墳時代になります。

おいたち

生年は不明。

父は赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ)。劉勃勃(りゅう ぼつぼつ)ともいいます。

母はわかっていません。

赫連皇后の出身部族・匈奴鉄弗部とは

は匈奴鉄弗部(きょうど てつふつ ぶ)の王。漢の時代に北方の遊牧民族として恐れられた匈奴(きょうど)の末裔。

匈奴のいち部族だった鉄弗部(てつふつぶ)出身の劉勃勃が中心になって 夏(大夏、劉夏)という国を作りました。夏建国後に姓を「赫連」に変えました。もともと父型の祖先が名乗っていた姓だからです。

ちなみに北魏~北周の名門一族・独孤氏も匈奴の出身。鉄弗部の赫連氏とも同族になります。匈奴独孤部は匈奴の内部で争いがおきて鮮卑拓跋部に亡命していました。

北魏の捕虜になり皇后に

赫連氏は夏の公主(王女)でした。

赫連 勃勃の建国した夏は北魏と争っていました。

425年。父・赫連 勃勃は死亡。兄の赫連 昌(かくれん しょう)が2代目皇帝になりました。

428年。北魏の太武帝が夏に攻め込んできました。夏は首都・統萬が占領されます。

兄・赫連昌は逃亡、甘粛天水に亡命しました。ところが、赫連氏と一族はは北魏に捕まってしまいます。太武帝は赫連氏と2人の姉妹を嬪妃にしました。

432年正月。太武帝は赫連氏を皇后にしました。

太武帝と赫連皇后との間に子供はいません。

太武帝存命中の赫連皇后の記録もほとんどありません。

形だけの皇后だったのでしょう。

宗愛の反乱

452年2月。宦官の宗愛(そう あい)によって太武帝が暗殺されました。

宗愛は「赫連皇后が、南安王 拓跋余を次の皇帝にすると命じた」と発表しました。

順番では太武帝の孫で、既に他界している皇太子の息子・拓跋濬(たくばつ しゅん)が継ぐべきでした。ですがまだ幼すぎるという理由で臣下の中にも不安視する意見がありました。

他の臣下は存命している太武帝の息子の中では一番年上の拓跋翰(たくばつ かん)を推薦する意見もありました。しかし宗愛が選んだのが太武帝の末子・拓跋余です。というのも宗愛は拓跋余と親しかったからです。

皇帝になった拓跋余は赫連皇后とは親しくしていました。

しかし赫連皇后が太武帝の暗殺に加わって拓跋余(たくばつ よ)を皇帝にしたという証拠はありません。

拓跋余はしだいに宗愛の横暴が嫌になってきました。拓跋余は宗愛を排除しようと動き出しました。ところが先に宗愛が動いて、拓跋余を殺害してしまいます。

その後、重臣たちが協力して宗愛を殺害。拓跋濬が皇帝になりました。

赫連皇后は太皇太后になりました。

453年3月。赫連太皇太后が死亡します。理由はわかりません。

「太武皇后」の諡号がおくられました。

 

赫連太皇太后の死の謎

赫連太皇太后は文成帝が即位してまもなく死亡しました。

その死因は何も書かれていないのでわかりません。

赫連太皇太后はかつて拓跋余から皇太后として扱われていました。

拓跋余の即位に関わったと疑われ、粛清されたのではないかともいわれます。

北魏には新皇帝の母が死刑になるという「子貴母死」がありました。その影響ともいわれますが。赫連太皇太后には実子はいません。

「子貴母死」を行う理由は外戚の影響を排除するため。敵国で人質同然の身になっている赫連太皇太后には北魏国内で支持する勢力があったのかは不明です。もしかすると匈奴出身の氏族からは支持されていたのかもしれません。匈奴派と鮮卑派の争いがあったのかもしれません。

太武帝が死亡したので必要とする者がなくなった。

宗愛や拓跋余の関係者と疑われたのかもしれません。

匈奴の王女でしたが敵国・北魏の捕虜になり皇后にされてしまいました。しかしそれは形ばかりの皇后で居心地の良いものではなかったでしょう。

しかも北魏の中でも争いに巻き込まれ最期は謎の死ととげてしまいます。

争いに翻弄された一生でした。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました