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拓跋晃(景穆太子)拓跋濬(文成帝)の父は期待された皇太子だった

4.2 南北朝

拓跋晃(たくばつ こう)は 太武帝(たいぶてい)の長男、北魏の皇太子でした。

拓跋濬(文成帝)の父親になります。

本来なら拓跋晃が次の皇帝になるはずでしたが若くして死亡してしまいます。

歴史上の拓跋晃(たくばつ こう)について紹介します。

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拓跋晃の史実

生年月日:428年
没年月日:451年7月
享年 24.

姓:拓跋(たくばつ)
名:晃(こう)
地位:北魏 皇太子
追尊:景穆太子、景穆皇帝
父:太武帝
母:賀夫人

正室:郁久閭氏
側室:10人

子供:拓跋濬(文成帝)
他、13男4女

いつの時代?

北魏は古代中国の五胡十六国時代から南北朝時代に存在した国。

三国志で有名な魏(曹魏)と区別するために北魏または元魏と呼びます。拓跋氏の姓が途中から「元」に変わるからです。

漢や三国志時代の後、隋・唐の前の時代です。このころの中国大陸は統一された強い国がなく、いくつかの国に分かれて争っていた時代でした。

日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。

朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代でした。

おいたち

428年。北魏の第3代皇帝・太武帝の長男として生まれました。
母は側室の賀夫人。賀氏の元の姓は賀蘭(ヘラン)あるいは賀賴(ヘライ)だったといわれます。北魏では漢風の一文字姓にするのが流行った時期があったのでその時に姓を変えたようです。

賀夫人は拓跋晃を産んだ後に死亡します。

物覚えが早い子供だったといいます。

432年。5歳のとき皇太子になりました。

太武帝が北燕に遠征するときは録尚書事を任されました。

北涼征伐のときは監国を任されました。

拓跋晃は読書が好きでとくに古典や歴史の本をよく読みました。

443年。柔然との戦い。太武帝の遠征につきしたがいました。北魏軍は鹿渾谷で柔然軍に予想外の遭遇をします。拓跋晃は柔然軍に攻撃するよう、太武帝に進言しました。重臣のは反対しました。太武帝が攻撃するかどうか迷っている間に柔然軍は逃げてしまいます。敵を逃したことに公開した太武帝はその後は拓跋晃の言葉を聞くようになりました。

太武帝は443年の冬には内政を拓跋晃に任せるようになります。拓跋晃は牛や農地を農民に貸して開墾を進めました。農民が田畑を耕さずに飲酒をしたり、芸能、商売を行うのを禁止、農業の促進をしました。この政策で田畑が大幅に増えました。

444年。拓跋晃は摂政を任されます。臣下の穆壽、崔浩、張黎らが太子を補佐しました。

446年。太武帝は蓋呉の反乱を鎮圧しました。そのとき長安の寺院に武器が隠されているのを発見しました。蓋呉と仏教勢力の繋がりもわかりました。漢人宰相の崔浩と道教教団の寇謙之の進言をうけた太武帝は、国内の全ての僧侶の処刑を決定。仏教の弾圧をはじめました。都の平城にいた拓跋晃は太武帝から寺院の破壊と仏教徒の処刑の命令を受けます。拓跋晃は寺院の破壊だけに留めるように言いましたが、父の命令に従うしかありませんでした。拓跋晃は実行をわざと送らせて僧侶を逃しました。

450年ごろまでには、拓跋晃は崔浩と意見が対立するようになりました。国史の編纂を巡って臣下たちも対立。太武帝の命で崔浩が処刑されました。

拓跋晃は東宮職の者と親しくなりました。東宮給事の仇尼道盛や侍郎の任平城らを信頼するようになり、果樹園や農園の経営にも力を入れ収入が増えるように努力していました。

重臣の高允は商売をしたり権限を彼らに与えないように注意しました。しかし拓跋晃は高允の忠告を聞きませんでした。

451年。拓跋晃は宦官の宋愛の汚職を見つけました。宋愛は、仇尼道盛と任平城が自分の汚職を告発するのではないかと恐れました。そこで宋愛は仇尼道盛と任平城が不正をしていると太武帝に告発。激怒した太武帝は仇尼道盛と任平城たち拓跋晃を処刑、他の拓跋晃の部下も処刑しました。拓跋晃は恐怖で病気になりその年のあいだに死亡しました。

死後。拓跋晃が無実だったことがわかり太武帝は後悔します。太武帝は拓跋晃に「景穆太子」諡を与えます。

452年。太武帝によって処刑されるのを恐れた宋愛は太武帝を暗殺してしまいます。

宋愛はその後重臣たちによって処刑され、拓跋晃の息子・拓跋濬が皇帝(文成帝)になりました。文成帝によって「景穆皇帝」の諡が贈られました。

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