独孤信:皇后になった独孤姉妹の父は北魏と北周の大将軍

独孤信は古代中国の北周の武将で政治家。北周の大司馬(軍事を司る長官)をつとめました。

彼自身も有能な軍人でしたが。娘たちも歴史上重要な人物です。長女は北周の皇后、七女・伽羅は随の皇后、四女は唐を建国した李淵の母になりました。

史実の独孤信はどんな人物だったのか紹介します。

独孤信(どっこ しん)の史実

いつの時代の人?

生年月日:502年
没年月日:557年

名前:独孤 信(どっこ しん)
本名:如願(にょがん)
字(あざな):期弥頭
父:独孤庫者
母:費連氏
妻:郭氏、崔氏

子供:8男7女

日本では飛鳥時代になります。用明・崇峻天皇の生きた時代とほぼ同じです。

独孤氏とは

姓は独孤(どっこ)。ちょっと変わった姓ですがこれは独孤(どっこ)一族は遊牧民族・匈奴(きょうど)の流れをくむ一族だったから。漢民族のような漢字一文字の姓ではないのです。

独孤一族は戦いが得意な武門の家柄でした。武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)とよばれる派閥の中でも特に力のあった一族です。もともと北魏の辺境を守っていた遊牧民の軍団でした。その後、内乱をヘて北魏は東西に分裂。そのような混乱の時代に力を付け西魏のあと建国した北周では武川鎮軍閥は中心的な勢力になりました。独孤一族も北周の建国に貢献した一族です。

おいたち

独孤信がうまれたころの独孤氏は北魏の武川鎮軍閥の一員でした。

本名は独孤如願(どっこ にょがん)

独孤信は容姿が美しく、乗馬や弓矢が得意でした。

523年。北魏で六鎮の乱が発生。

六鎮とは北魏の辺境を守る6つの軍団。どれもが遊牧民の人々です。武川鎮もそのひとつでした。

武川鎮軍閥は国境を守る軍隊として北魏から優遇されていました。ところが北周の孝文帝は漢民族中心の政策をとったため辺境の遊牧民は冷遇されました。中央からやってきた長官に搾取されたり、出世の道が断たれたりしました。そうした軍閥の不満が爆発。六鎮のひとつ沃野鎮が反乱を起こしました。

北魏は内乱状態になり様々な軍閥がいりみだれて戦いになりました。沃野鎮の武将・衛可孤が武川鎮を包囲。武川鎮も賀抜勝が中心になって抵抗を続けました。

525年。独孤信は賀抜度抜、宇文肱たちとともに衛可孤を襲撃して殺害。この戦いで独孤信は有名になりました。

しかし反乱軍の葛栄(かつ えい)に捕まり仕方なく服従しました。そのとき衣服を飾り立てて戦場に出たことから「独孤信」のあだ名がつきました。

528年。北魏の将軍・爾朱栄(じしゅ えい)が葛栄を破ると、爾朱栄のもとで戦います。

独孤信は別将の地位を与えられ、反乱軍との戦いで功績をあげました。

530年、荊州新野鎮将・新野郡太守になり。その後、荊州防城大都督・南郷郡太守になって赴任しました。

その後、北魏の孝武帝に仕えます。 

534年。斛斯椿たちによって孝武帝が洛陽から連れ出され長安に向かいました。独孤信は父母妻子を残して孝武帝のあとを追います。孝武帝に追いついた独孤信は忠臣と褒め称えられ浮陽郡公になりました。

西魏時代

北魏は洛陽を都にする東魏と長安を都にする西魏に分裂してしまいます。独孤信は西魏の武将として戦いました。

荊州に攻めてきた東魏との戦いを続け、一時は荊州を奪い返します。大軍で攻めてきて東魏の軍には敵わず敗走、部下を率いて梁に亡命しました。

537年。文帝の許しを得て西魏に復帰しました。

その後も西魏を支える武将として東魏と戦います。

548年。柱国大将軍になりました。

556年。大司馬になりました。大司馬とは軍事を司る長官です。

北周時代

557年。宇文覚(うぶん かく)が即位。西魏が滅亡し北周が建国しました。

独孤信は太保・大宗伯になりました。

独孤信は有力な一族に娘を嫁がせました。

長女を皇帝・宇文覚に嫁がせました。敬皇后と呼ばれます。

四女を李昞に嫁がせました。四女の息子・李淵は唐の初代皇帝になり。四女は後に元貞太后と呼ばれます。

七女・伽羅(きゃら)は楊堅(ようけん)に嫁がせました。楊堅は北周の大将軍。

しかし北周では宇文護が実質的な権力を持っていました。独孤信と趙貴は宇文護の殺害を計画します。宇文盛が密告したためばれてしまい趙貴は処刑されました。独孤信は免職に追い込まれ、宇文護によって自害を強制されます。自宅で自害しました。享年55。


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