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李娥姿|武帝・宇文邕がお気に入りの側室は敵国の捕虜だった?

6.1 北朝・魏・周・斉

李娥姿(り・がし)は北周皇帝の3代皇帝 武帝・宇文邕の側室。

4代皇帝。宣帝・宇文贇の生母です。

西魏とは敵対していた梁の出身です。

史実の李娥姿はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李娥姿 の史実

いつの時代の人?

生年月日:536年
没年月日:588年

姓:李(り)
名称:娥姿(がし)
法名:常悲
称号:帝太后
父:不明
母:不明
夫:武帝・宇文邕

子供:
宣帝・宇文贇
漢王・宇文贊

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

古代中国の漢が滅びて随ができるまでの間。様々な国ができては滅んでいた時代がありました。そのなかに北と南に大国ができて争っていた南北朝時代という時期があります。

北には鮮卑や遊牧民が中心になって作った「北魏」があり。「北魏」は分裂して「東魏」と「西魏」になり。「東魏」は「北斉」になり、「西魏」は「北周」になります。

一方の南には漢人が作った「宋(劉宋)」があり。「南斉」、「梁」、「陳」と目まぐるしく建国と滅亡を繰り返します。

536年。李娥姿(り・がし)は梁国で生まれました。平民出身です。

李娥姿とその家族は江陵(現在の湖北省荊州)で暮らしていました。

このころの梁は王族が争いを繰り返していたので。国はまともに統治できていません。

552年。蕭繹(しょう・えき)が江陵で梁の皇帝に即位。蕭繹と対立していた蕭詧(しょう・さつ)は西魏に亡命、復活の機会を狙っていました。

554年。西魏は蕭詧を担いで江陵に攻めてきました。西魏の将軍・于謹が率いる5万の大群に江陵はあっけなく占領されました。梁の元帝は西魏に投降。蕭詧は元帝をゆるさず殺害しました。

西魏は江陵の人々を捕虜にして長安に連行しました。

このとき、李娥姿(り・がし)の家族は西魏に捕まり奴婢にされました。

李娥姿も他の江陵の捕虜と同じように長安に連行されました。

宇文泰は李娥姿の美しさに目をつけ、四男の宇文邕に妾として与えました。

彼女は宇文邕の寵愛を受けました。

557年。西魏が滅亡。北周が建国。宇文邕は王族になりました。

559年。宇文贇(宣帝)を生みました。

560年。夫の宇文邕が北周皇帝(武帝)になりました。

李娥姿は息子を生みましたが皇后にはなれず側室でした。

当時の宇文邕の正室が誰だったのかはわかりません。沈皇后がいたという説もあります。他にも柱国将軍・李虎の娘など名門の娘もいたので平民出身の李娥姿が皇后になるのは難しかったでしょう。

宇文邕は皇帝に即位後も李娥姿を寵愛していたらしく、宇文贊(漢王)が生まれています。

568年。突厥の王女・阿史那氏が皇后になりました。

578年6月。武帝・宇文邕が死去。

 

息子が皇帝になる

578年7月。息子の宇文贇が北周の皇帝(宣帝)になりました。

皇太后には皇后の阿史那氏がなりました。皇帝生母の李娥姿の扱いが問題になります。

李娥姿は皇帝の生母ということで「帝太后」になりました。

579年2月。称号が「天元帝太后」になりました。

7月。称号が「天皇太后」になりました。

580年2月。「天元聖皇太后」になりました。

5月。宣帝・宇文贇が21歳の若さで死去。

宇文贇の息子の静帝・宇文闡が即位。

李娥姿は「太帝太后」になりました。

581年2月。北周が滅亡。隋が建国。

楊堅によって息子の漢王・宇文贊が処刑されました。他の宇文一族も多くが処刑されました。

宣帝・宇文贇の息子たち(李娥姿にとっては孫)たちも全員処刑されました。

3月。出家して尼になりました。
「常悲」と改名しました。晩年になって息子や孫を次々と失いました。名前にはうな悲しい名前を付けたのでしょう。

588年。死去。享年53。

尼の格式で大興城(長安)の南に葬られました。

奴婢にされ西魏に連行されて、敵国の妾にされました。
その後、

TVドラマ

 

独孤伽羅 2018年、中国 演:張子璇

 

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