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拓跋翰 は 皇帝候補に選ばれた直後に暗殺された

4.3 南北朝

拓跋翰(たくばつ かん)は、拓跋鮮卑が作った国・北魏の皇族。

北魏第3代皇帝・太武帝の三男です。

太武帝の死後。臣下たちによって次の皇帝候補に担がれたことがありました。ところが仲の悪かった宗愛によって殺害されてしまいます。

史実の拓跋翰(たくばつ かん)はどんな人物だったのか紹介します。

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拓跋翰 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:452年

姓:拓跋(たくばつ)
名:翰(かん)
称号:
父:太武帝(北魏3代皇帝)
母:舒椒房
妻:不明

子:拓跋道符

日本では古墳時代になります。

おいたち

生年は不明。

父は北魏の第3代皇帝・太武帝。

母は側室の舒椒房。

拓跋翰(たくばつ かん)は太武帝の三男です。異母兄弟に拓跋晃(たくばつ こう)、拓跋余(たくばつ よ)がいます。拓跋翰(たくばつ しゅん)の叔父です。

拓跋翰は忠誠心が高く真っ直ぐな性格でした。そのため役人たちは彼を恐れていました。

442年。秦王に任命されました。中央軍の大将軍になりました。

まだ若かった拓跋翰のため、大臣の高允は「諸侯の戒め」を作りました。それを読んだ拓跋翰は大変喜んだといいます。

451年。東平王になりました。枹罕に駐留し、羌族(きょうぞく)の信頼を得ました。

452年2月。太武帝が宗愛に暗殺されました。蘭延、和疋たち重臣は皇帝の死を隠して後継者選びを行いました。

蘭延、和疋は太武帝の直系の孫・拓跋濬はまだ幼いので不安がある、そこで太武帝の息子で最も年長者だった拓跋翰を次の皇帝にしようと考えました。

ところが薛提は拓跋濬を皇帝にしたいと考えました。なかなか話はまとまりませんでした。

ところが拓跋翰と仲の悪かった宗愛は、赫連皇后の命令と嘘をついて蘭延、和疋、薛提をおびき出して殺害。拓跋翰も殺害されました。

拓跋濬は生け捕りにされました。その後、宗愛は仲の良かった南安王・拓跋余(たくばつ よ)を皇帝にしました。

拓跋翰(たくばつ かん)には拓跋道符(たくばつ どうふ)という息子がいました。

拓跋翰が死亡した後。拓跋道符は父の役職を受け継ぎ長安鎮都大将になりました。

献文帝の時代

462年。拓跋濬の息子・拓跋弘(たくばつ こう)が皇帝になりました(献文帝)。ところが献文帝はまだ幼いので馮太后が中心になって政治を行っていました。

467年。拓跋道符は長安で反乱をおこしました。副将の萬古鎮、鉅鹿公の李恢、雍州刺史の魚玄明を殺害しました。

献文帝は平昌公の和其奴、東陽公の元丕に命令して拓跋道符を討たせました。拓跋道符は長安鎮司馬の段太陽に斬られて命を落します。そして拓跋道符の兄弟も皆処刑されました。

拓跋翰(たくばつ かん)の血筋は途絶えました。

ドラマ

王女未央 2016年、中国、演:張天陽

ドラマでは前半は目立った存在ではありません。ドラマ中盤ごろから勢力を拡大して後継者争いに加わります。拓跋余のライバルになりますが、ドラマ終盤でそれまでの悪事が明らかになって地位を剥奪され庶人に格下げ。後継者争いから脱落します。その後、拓跋燾(太武帝)が死亡。史実とドラマでは、拓跋翰と拓跋燾の死亡(失脚)する順番が違います。

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