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宗愛 中国史上唯一の2人の皇帝を暗殺した宦官

6.1 北朝・魏・周・斉

宗愛は北魏の宦官。

太武帝と拓跋余の2人の皇帝を暗殺、皇太子を結果的に死に追いやった人物です。

長い中国の歴史でも、2人の皇帝を暗殺した宦官は他にいません。

史実の宗愛はどんな人物だったのか紹介します。

 

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宗愛の史実

いつの時代の人?

生年月日:401年
没年月日:452年

姓:宗
名称:愛
地位:
父:不明
母:不明

日本では古墳時代になります。

おいたち

宗愛の親や出身はわかりません。

罪を働いたため宦官になりました。低い位の宦官から様々な職を経験して中常侍に出世しました。

皇太子派と対立

太武帝が遠征している時、都の平城を任されていたのは皇太子・拓跋晃でした。宗愛の日頃の行いがよくないので拓跋晃は宗愛を嫌っていました。

特に東宮給事の仇尼道盛や侍郎の任平城は、拓跋晃と親しくしていました。

450年。仇尼道盛と任平城に日頃の悪事がバレるのを恐れた宗愛は、太武帝に嘘の報告をしました。仇尼道盛と任平城が不正を働いていると言ったのです。

太武帝は宗愛の言葉を信じて激怒しました。仇尼道盛、任平城他にも東宮職の者を処刑しました。拓跋晃は恐怖のあまり心身を壊しました。

451年正月。太武帝は長江で盛大な宴会を開きました。このとき太武帝は家臣たちに褒美を与え、宗愛は秦郡公に任命されました。

太武帝を暗殺

451年6月。拓跋晃は病死しました。

あとになって太武帝は拓跋晃(たくばつ こう)が無実だったことを知り後悔します。

宗愛は嘘がばれて処刑されると思いました。そこで先手をうって太武帝暗殺を計画します。

452年2月。宗愛は太武帝を暗殺しました。

尚書左僕射の蘭延や侍中の和疋・薛提らは太武帝が殺されたことを隠して次の皇帝を誰にするか話し合いました。蘭延と和疋は、拓跋晃の息子・拓跋濬はまだ幼いので皇帝にするには不十分です。そこで太武帝の息子の中で最年長だった拓跋翰(たくばつ しゅん)を次の皇帝にしようとしました。しかし薛提は拓跋濬を皇位継承から外すことにためらいがありました。彼らは誰を次の皇帝にするかなかなか決められませんでした。

宗愛は拓跋濬を嫌っていました。王子の中で以前から親しくしていたのは南安王 拓跋余(たくばつ よ)だけです。そこで拓跋余を次の皇帝にしようと考えました。

宗愛は赫連皇后の命令と偽って蘭延達をおびき出し、宦官30人に命令して宮中で待ち伏せしました。蘭延達が来たところを切りかかって殺害。さらに拓跋翰を捕まえて殺害しました。

 

 拓跋余を皇帝にする

邪魔者がいなくなった宗愛は拓跋余を皇帝にしました。

拓跋余に命令を出させて大司馬・大将軍・太師・都督中外諸軍事させました。

宗愛は軍と朝廷内の主な部署を牛耳ることに成功しました。権力をひとりじめした宗愛はやりたいほうだいでした。

拓跋余は皇帝に担がれたとはいえ形だけでした。宋愛の行いが我慢できなくなります。そこで拓跋余は宋愛から権力をとりあげようと宗愛の暗殺を計画します。

452年11月。しかし拓跋余の動きに気づいた宗愛は拓跋余の殺害を決めます。

拓跋余が祖先の宗廟で生贄を捧げる儀式をしている間に、部下の賈周を送り込んで拓跋余を殺害させました。

その後。劉尼、游雅、源賀、陸麗、長孫渴侯の5人密かに集まり、宗愛を殺害し拓跋濬を皇帝にすることで一致。彼らは宮殿を守り拓跋濬を宮廷に迎えいれました。そして劉尼は軍を率いて宗愛と賈周を捕らえました。

拓跋濬が即位しました(文成帝)。

その後、宗愛と賈周は処刑されました。

 

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