独孤善・独孤伽羅の兄は宇文護に疎まれて失業

周5 南北朝

独孤善は西魏~北周の武将。
独孤信の次男。
北周の明敬皇后(ドラマでは般若)の異母兄。
隋の文献皇后(伽羅)の異母兄です。

独孤信には息子が何人かいました。
父親や姉妹は有名ですが、息子はほとんど知られていません。

独孤善は次男でしたが長男の羅がいなかったので、事実上の長男でした。ところが独孤信が謀反の疑いで自害させられると職を失ってしまいます。

宇文護の死後、公務に復帰しました。40歳と若くして死亡したので歴史に残るような出来事はありません。

それでも知事クラス役人としては役目を果たしていたようです。

独孤善とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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独孤善(どっこ ぜん)の史実

生年月日:530年代(538年?)
没年月日:北周建徳年間(578年?)

姓:独孤(どっこ)
字:伏陁
名:善(ぜん)
鮮卑名:弩引
父:独孤信
母:郭氏
妻:
子供:独孤祥、独孤覧

日本では飛鳥時代になります。用明・崇峻天皇の生きた時代とほぼ同じです。

独孤善が生まれるまで

独孤家はかつては南匈奴の部族長の家柄でした。匈奴内の争いで拓跋卑系に亡命しました。北魏建国後は北の国境を守る六鎮のひとつ武州鎮に所属。遊牧民族の柔然の侵入を防いでいました。

父・独孤信は武州鎮の重鎮。六鎮の乱で活躍して北魏の重臣になります。

父は北魏の武将・独孤信。
母は郭氏。

詳しい生年は不明。
530年。独孤信は荊州新野鎮将・新野郡太守になって荊州に赴任。その後、南郷郡太守になりました。荊州を拠点に何度も出陣しました。

534年。北魏の孝武帝は高歓と対立。宇文泰を頼って洛陽から長安に移動しました。独孤信は孝武帝から呼び出しを受けてました。よほど急な呼び出しだったのか独孤信は家族を荊州に残して孝武帝の元に行きました。

534年に独孤信の長男・独孤羅が生まれていました。

独孤信が長安に行った後。独孤信の家族は高歓に捕まり親は殺害され、妻の如羅氏と長男の羅は東魏の捕虜になっていました。

その後、独孤信は梁と戦いましたが多勢に無勢で梁に投降。3年間梁で暮らして537年に西魏に戻ってきます。

独孤善は郭氏と再婚。善はこのころ生まれたようです。

善は独孤信の次男です。
長兄の独孤羅は東魏に囚われたままなので事実上の長男の扱いでした。

子供の頃はとても頭が良く、乗馬や弓が得意でした。

独孤善は魏宁県公になりました。父親の功績のおかげだといわれます。独孤信は皇帝への忠義を尽くした結果、親と最初の妻・長男を失ってしまいました。西魏の朝廷としては独孤信に報いるための人事だったのでしょう。

552年。驃騎大将軍、開府儀同三司、加侍中、進爵長安郡公になりました。驃騎大将軍(一品)は大将軍の次の位です。

 

父・独孤信と宇文護の対立で運命が変わる

557年。西魏が滅んで北周が建国。

河州刺史を解任されます。その直後。父の独孤信が宇文護を暗殺に関わった疑いで自害に追い込まれました。

独孤善はすべての職を解任され、家族たちと引き離されて暮らしました。

560年。武帝・宇文邕が即位。実権は宇文護が握っていました。

563年。独孤善は龍州任刺史(龍州の知事)に任命されました。

ところが龍州で少数民族の任公忻と李国立らが反乱を起こします。独孤善は反乱軍を鎮圧することができません。西魏の朝廷(つまり宇文護)は任刺史を和洪に交代させました。独孤善はまた職を失いました。

役目を全うできなかった独孤善にも非がありますが、復帰していきなり反乱とはついていません。

宇文護は、独孤善を復帰させようとする宇文邕の顔をたてて独孤善に役目を与えたものの。不穏な地域を選んで知事にした。とも考えられます。

一ヶ月後、和洪は反乱を鎮圧しました。

572年。武帝・宇文邕が宇文護を殺害。
武帝は独孤信の名誉を回復させました。
独孤信に与えられていた河内郡公の爵位を独孤善が受け継ぎました。領地2000戸を与えられました。

建德年間。武帝は北斉の討伐を行いました。独孤善はこの戦いに従軍して功績をあげ上開府の称号が与えられました。

燕州刺史になりました。独孤善は寛大で公平な統治を行ったので燕州の人びとは平和だったといいます。

40歳のとき。仕事場で倒れて死亡しました。

隋王朝の建国後。独孤善には柱国の称号が与えられました。

TVドラマ

独孤皇后 2019年、中国 演:孫波

宇文護の手下によって負傷。傷が治って将軍になりますがまた襲われて死亡します。史実では宇文護によって解任されて失業しましたが、ドラマではさらに悲劇的な最期です。

 

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