北魏の孝明帝 元詡(げん・しょう)は6世紀の中国南北朝時代の北朝・北魏の第8代皇帝。
宣武帝の次男です。
中国ドラマ「美人骨・周生如故」の北魏皇帝 劉徽のモデルにもなりました。
わずか5歳で皇帝になり。実権は臣下や母の霊太后に握られていました。
孝明帝は国が疲弊し民が苦しむのを憂いて実権を取り戻そうとしましたが失敗しています。
史実の孝明帝 元詡はどんな人物だったのか紹介します。
孝明帝 元詡の史実
いつの時代の人?
生年月日:510年4月8日
没年月日:528年3月31日
享年:18
姓 :元(げん)氏
名称:詡(しょう)
国:北魏
称号:孝明皇帝
父: 宣武帝
母:宣武霊皇后 胡氏
妻:胡皇后
子供:女(母は潘充華)
日本では古墳時代になります。
孝明帝の生涯
510年。梁(蕭梁)で誕生。
蕭梁の正式な国名は「梁」ですが同じ名前の他の国と区別するために「蕭梁」とか「南朝梁」といいます。
父は北魏の7代皇帝 宣武帝
母は宣武霊皇后 胡氏。
512年。皇太子になりました。
515年(延昌4年)。宣武帝が病死すると、太子 元詡が即位しました。
でも元詡はまだ5歳です。
元叉と劉騰の反乱
太傅侍中の元懌(げん・えき)が輔政を務めました。しかし霊太后は元懌に無理やり関係を迫り二人は密通関係になりました。元懌は夜中に宮中に宿泊するようになります。
そのころ領軍 元叉(げん・さ)と長秋卿 劉騰(りゅう・とう)たちは横暴になっていました。元懌は彼らの横暴を法をもって抑えようとしていました。そこで元叉と 劉騰は元懌を殺害。霊太后を北宮の宣光殿に幽閉しました。
元叉は朝廷を劉騰は内廷を掌握し、北魏の政治を思うがままに動かしました。
523年(正光4年)。 劉騰が死亡。すると元叉の影響力も衰えがみられるようになりました。
元叉を排除する
524年(正光5年)。霊太后は母と子が思うように会えないため出家したいと言い出した。孝明帝と臣下たちは叩頭して考え直すように求めましたが、霊太后は声を荒らげ、孝明帝の言うことを聞きません。そこで孝明帝は嘉福殿に数日間泊まり込んで太后とともに元叉を排除するために計略を考えました。
孝明帝と霊太后は洛陽南郊の洛水にでかけ高陽王 元雍の屋敷に泊まり、そこで元叉排斥の計がまとまりました。
霊太后は元叉から領軍を解任、兵権を奪うと代わりに驃騎大将軍・儀同三司・尚書令・侍中・領左右に任命しました。その後、宮中での宿泊を禁止、侍中も解任。その後、元叉を捕らえて官爵を剥奪、庶民に落としました。
霊太后と鄭儼、徐紇の横暴
その後、霊太后は鄭儼、徐紇、李神軌ら複数の愛人を持ちました。鄭儼(てい・げん)と徐紇(じょ・こつ)は朝廷を好き勝手に動かし「徐鄭」と呼ばれました。
国家財政は悪化。朝廷は6年分の税を前倒しで徴収することを決定。これにより民衆の生活はさらに苦しくなりました。
世間では盗賊が横行し大量の武器が奪われるなど、特に関西地区の治安が悪化。政府の財政は枯渇し、官僚や外国使節への食料や肉の供給を50%削減しました。
その後も増税が行われ民の生活は疲弊します。
武泰元年(528年)。孝明帝の妃・潘外憐が女児を出産。ところが霊太后は男児が生まれたと偽り、大赦を行いました。
孝明帝の最期とその後
2月。孝明帝は突如死亡しました。
鄭儼(てい・げん)に殺害されたと噂されました。
孝明帝が爾朱栄を頼り、霊太后から実権を取り返そうとしたので霊太后によって毒殺されたともいわれます。
霊太后はその後、孝明帝の娘を男と偽って皇位につけようとしましたがバレたので孝明帝の従甥・元釗(げん しょう)を即位させました。
しかし爾朱栄が挙兵。鄭儼と徐紇が解任されましたが爾朱栄の怒りは収まらず、洛陽を占領。霊太后と元釗を捕らえると黄河に沈め。長楽王元子攸(孝荘帝)を新しい皇帝に擁立しました。
テレビドラマ
美人骨・周生如故 2021年、中国 演:羅殿夏 劉徽のモデル。
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