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南郡王(竟陵王)劉義宣(りゅう・ぎせん)最後は反乱を起こして処刑される

6 南北朝

南郡王(なんぐんおう)・劉義宣(りゅう・ぎせん)は劉宋の皇族。竟陵王(きょうりょうおう)ともいいます。

初代皇帝 宋武帝・劉裕の第6皇子です。

文帝からは有能ではないと思われていましたが。

文帝が皇太子の劉劭に殺されると。

兄の武陵王 劉駿とともに劉劭を討ちました。劉駿は皇帝に即位。孝武帝になります。

ところが孝武帝も劉義宣もふたりとも問題のある人物で。

劉義宣は孝武帝に対して反乱をおこして失敗。処刑されます。

史実の劉義宣はどんな人物だったのか紹介します。

 

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南郡王 劉義宣の史実

いつの時代の人?

生年月日:415年
没年月日:454年

姓 :劉(りゅう)
名称:義宣(ぎせん)

国:宋(劉宋)
地位:皇子
称号:竟陵王(きょうりょうおう)、南郡王(なんぐんおう)

父:劉裕(武帝)
母:美人孫氏
妻:檀氏

子供:18男1女(名前がわかっている者)

彼は劉宋の初代皇帝 武帝・劉裕の第六皇子 です。

日本では古墳時代(倭の五王の時代)になります。

おいたち

劉義康(りゅう・ぎこう)は東普時代の409年に生まれました。

父は東晋の将軍・劉裕。

420年。父・劉裕は東晋の恭帝から皇帝の座を奪い「宋」を建国。自ら皇帝になりました。

世界史で習う趙氏の「宋」は960年建国なので劉氏の「宋」が先です。でも春秋戦国時代にも「宋」(紀元前11世紀から紀元前3世紀)という国はあったので劉氏の宋がオリジナルではありません。「宋」は地名からつけているので同じ場所に建国した国は「宋」と名付けられることがあるのです。

元嘉元年(424年)。劉義宣は竟陵王(きょうりょうおう)に任命されました。
さらに左将軍にも任命され石頭城を守りました。

その後も幾つかの役職を任されましたが、居城は石頭城のままでした。

元嘉9年(432年)。中書監に任命され、中軍将軍になりました。

南北朝時代。南朝側は長江を利用して北方の国から首都の建康(今の南京)を守っていました。

荊州は建康の上流の地域にあり、重要な場所でした。そこで劉宋の初代皇帝・宋武帝 劉裕は息子たちをこの重要な地域に配置していました。

宋文帝が後を継ぐと四弟の彭城王 劉義康、五弟の江夏王 劉義恭をこの地域の守りにつかせていました。その後は従兄弟の劉義慶(りゅう・ぎけい)が荊州を守りましたが他の地域に転任。

その後、順番としては六弟の劉義宣が受け継ぐべきところでしたが。宋文帝は劉義宣にはその才能がないと思い、七弟の劉義慶(りゅう・ぎけい)を荊州刺史にしました。

劉義宣は征北将軍、都督南徐州軍事、南徐州刺史などの役職が与えられました。

姉の会稽(かいけい)長公主が何度も劉義宣を推薦。宋文帝の姉でもある会稽長公主は後宮を仕切っていた女性で皇帝に影響力がありました。会稽長公主は劉義康とも仲が良かったですが、劉義宣とも仲がよかったようです。

元嘉21年(444年)。劉義宣は荊州など七州の軍事を任され、車騎将軍、荊州刺史に任命されました。

元嘉25年(448年)。劉義宣は司空(軍の最高位)、侍中に昇進。

元嘉27年(450年)。劉宋は北伐を開始すると、北魏も対抗して南下してきました。

劉義宣は北魏が攻めてくるのが怖くて長江の北にある江陵から江南に逃げようとしました。結局、北魏軍は荊州には来なかったので劉義宣が逃げることはありませんでしたが。宋文帝は「敵前逃亡しないように」と劉義宣を叱りました。

元嘉28年(451年)。兄の彭城王 劉義康が死亡。

劉劭が文帝を殺害して皇帝になる

元嘉30年(453年)。文帝は劉義宣を司徒、中軍将軍、揚州刺史に任命しました。文帝の次男・劉濬が 荊州を引き継ぐことになりました。

そのころ宋文帝は皇太子・劉劭(りゅう・しょう)が呪詛をしようとしたとして廃位しようと考え、前例がないか調べ始めました。

2月。その動きを知った劉劭は異母弟の劉濬とともに夜間の宮殿に侵入。宋文帝を殺害しました。劉劭は文帝は「謀反人の徐湛之、江湛に殺された」と発表。すぐに自ら皇帝を名乗りました。

劉義宣はまだ荊州にいて揚州には移動していませんでした。そのまま荊州にとどまりました。

劉劭は劉義宣のご機嫌をとろうと中書監、太尉,仍領司徒、侍中に任命しました。

雍州刺史の臧質(ぞう・しつ)は建康にいた使用人から「文帝は劉劭に殺された」ことを知らされると劉義宣に使者を送って報告。臧質は兵をまとめて荊州にいる劉義宣と合流しました。

劉義宣はすぐに劉劭を討つために挙兵。江州にいる兄の武陵王 劉駿(りゅう・しゅん)とも連絡をとりました。

劉義宣の呼びかけに応えて豫州刺史の劉遵考、司州刺史の魯爽、青州刺史の張永、益州刺史の劉瑀も挙兵しました。

武陵王 劉駿(りゅう・しゅん)もすぐに挙兵しました。武陵王 劉駿は存命している武帝の皇子の中で最年長で強力な軍を持っていたので反乱軍は武陵王 劉駿(りゅう・しゅん)を中心にまとまり劉劭との戦いが始まりました。

劉義宣は将軍の徐遺宝に劉駿と協力して東の建康を攻めるように命令しました。

臧質は当初、無知な劉義宣を担いで皇帝にするつもりでしたが、劉義宣が劉駿に味方する気でいるのを知ると劉駿に従って東に向かいました。

反乱軍は4月には建康を攻め落としました。敗れた劉劭は台城に逃亡。

首都を占領した劉駿は皇帝に即位しました。孝武帝の誕生です。

5月。台城にいた劉劭は孝武帝・劉駿が差し向けた討伐軍に討たれました。

孝武帝の時代

つけあがる南郡王・劉義宣

劉義宣は孝武帝から「最大の功労者」として大変気に入られていました。

劉義宣に中書監、都督揚豫二州、丞相、揚州刺史など様々な役職を与えました。劉劭は南郡王(なんぐんおう)に任命されました。同時に母の孫氏に「太妃」の位が与えられました。

でも劉義宣は揚州に行くのを拒否。辞退します。そこで劉劭は八州諸軍事、荊湘二州刺史などにも任命しました。荊州にいながら大きな権限を持ちました。

劉義宣は10年も荊州にいてその間に財を蓄え強力な軍隊を持っていました。劉劭との戦いでも大手柄をたてていたのでいい気になっていました。孝武帝の命令でも気に入らない命令には従わず、孝武帝に対して偉そうな態度をとっていました。

江州刺史になっていた臧質(ぞう・しつ)は劉義宣に密書を送り「劉義宣が一番の手柄をたてたのだから皇帝になるべき」とそそのかしました。蔡超と竺超民も謀反をそそのかします。劉義宣はすぐには動きませんでした。

劉義宣の反乱

皇帝になった孝武帝も問題の多い人物で酒癖が悪くアルコール中毒だったともいわれます。さらに都で暮らしていた劉義宣の娘に手を出して不倫関係になってしまいました。

その話を聞いた劉義宣は怒って挙兵を決断。武器と軍船を集め、豫州刺史の魯爽、兗州刺史の徐遺宝とも連絡をとりました。孝建元年(454年)秋に挙兵することにしました。

ところが魯爽は2月に挙兵してしまいます。

劉義宣は魯爽の行動に驚きましたが、すでに挙兵してしまったので劉義宣も挙兵するしかありません。まずは協力を断った雍州刺史の朱脩之を10万の兵で攻めました。その後、臧質の軍と合流。東に向かいました。道中、徐遺宝が敗北し、魯爽が戦死したことを知り落胆します。

劉義宣は劉義恭にも協力を求めました。でも劉義恭は劉義宣に出した手紙に「昔、桓玄は殷仲堪とともに挙兵した。今と同じだ」と書き挙兵を断りました。

桓玄と殷仲堪は東晋に反乱を起こし桓玄は皇帝になった人物です。でもわずか3ヶ月後に劉裕に討たれました。劉裕は劉義恭や劉義宣の父。劉義恭は劉義宣と臧質を桓玄と殷仲堪に例え「桓玄のようにはなるな」と言いたかったのです。

反乱に失敗して逃走

その後も劉義宣と臧質は戦い続け、長江の西側にある玄謨の拠点を奪うことに成功したました。東の拠点も攻めようとしましが玄謨の激しい抵抗にあって臧質が敗北。垣護が風を利用して船を焼いてしまいました。そのとき川の西側にいた劉義宣は味方の敗北を知ると船で逃げました。臧質とも連絡がとれなくなってしまいます。

江夏に到着すると途中水路は封鎖されていると聞いたので陸路で逃げました。兵は散り散りになってしまい付いてきたのは十数人でした。

やがて劉義宣は足が痛くなって歩けなくなり、平民から車を調達、食料をもらって飢えをしのぎました。

ようやく江陵に到着した劉義宣を出迎えたのは竺超民でした。魯秀、竺超民は江陵にはまだ1万以上の兵がいるので兵を集めよう言いますが。劉義宣はもう戦う気はありません。人に会おうともしませんでした。兵たちは不安になって次々と逃げていきます。魯秀も北に逃げてしまいました。

江陵の街も安全ではなくなりました。劉義宣は食料を用意して5人の妾たちを男装させて魯秀のあとを追おうとしました。でも江陵の街は混乱していて武装した者どもがうろついています。劉義宣は騒ぎに驚いた馬から振り落とされてしまい歩いて街を離れることにしました。

劉義宣が郊外にでたところで竺超民が追いついてきたので馬を与えられました。竺超民は江陵に残りました。

劉義宣は郊外に出ましたが兵たちは逃げていません。魯秀に合流しようと思いましたがどこに行ったのかもわかりません。途中、空の官舍を見つけたので泊まりました。ベッドはなく床で寝ました。

諦めた劉義宣は竺超民に使者を送りました。竺超民は古い荷車を用意して劉義宣を捕らえ朱脩之にひきわたしました。

投獄された劉義宣は「臧質の年寄りが私を惑わせたのだ」と座り込んで嘆きました。5人の妾も同じ牢に入れられましたが、やがて牢から出され劉義宣だけが残りました。

劉義恭たち8人の官吏は劉義宣が捕らえられたのを知ると新任の荊州刺史の朱脩之に劉義宣を「賜死」にするように手紙を送りました。

ところが朱脩之は手紙が到着する前に劉義宣を「処刑」しました。享年40.
(賜死ならまだ王族としての名誉は保たれますが、処刑になると罪人扱いです)

劉義宣の息子たちも全員処刑されました。竺超民も劉義宣に味方した罪で処刑されましたが、兄弟は助けられました。

テレビドラマ

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