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馬医の大妃:仁宣王后(インソンワンフ)/孝肅王大妃の史実

仁宣王后 2 李氏朝鮮の妃・側室

「馬医」に登場する大妃は孝肅王大妃。朝鮮17代国王・孝宗の妃です。

馬医では新しい外科治療をなかなか受け入れない頑なな大妃として描かれました。

王妃時代は「花たちの戦い・宮廷残酷史」の最後の方で登場するていど。ドラマではあまり登場しませんね。でも、仁祖時代に混乱した王室を立て直した功労者でした。

史実の仁宣王后はどんな人物だったのか紹介します。

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仁宣王后(インソンワンフ)の史実

どんな人?

名前:不明
称号:仁宣王后、孝肅王大妃

生年月日:1619年2月9日
没年月日:1674年3月19日

彼女が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に16代仁祖~18代顕宗の時代です。日本では江戸時代の人になります。

家族

父:張維
母:金氏

 

夫:孝宗
子供:
長女:淑愼公主(1635~1637)
次女:淑安公主(1636~1697)
三女:淑明公主(1640~1699)
長男:顕宗(1641~1674)
四女:淑徽公主(1642~1684)
五女・淑靜公主(164535~1637)
六女:淑敬公主(1648〜1671)
養女:義順公主(1635~1636)

他にも早世した二人の王子がいますが、朝鮮王朝実録には載っていません。

 

おいたち

1619年。張維の娘として生まれました。
張維は仁祖が光海君に対して行ったクーデター(仁祖反正)に参加しました。のちに右議政になった重臣です。

張氏は仁祖の次男・鳳林大君(ポンリムテグン)と結婚。豊安府夫人の称号が与えられました。

1636年。清と朝鮮の戦争(丙子戦争)が起こり朝鮮は降伏。

張氏は夫と共に清国の人質として瀋陽に連れて行かれることになります。9年間の異国での生活は彼女の人生に深い傷跡を残しました。

清への反発

夫の鳳林大君は、昭顕世子夫妻とは対照的に清に反発。張氏の実家も「清を倒せ」と主張する強硬派。豊安府夫人も清に対して反感をもっていました。

清に馴染んで新しいものを取り入れようとした昭顕世子夫妻とは正反対のようです。仁祖に気に入られたのもわかるような気がします。

朝鮮への帰国と世子嬪への昇格

1645年。先に戻っていた昭顕世子が突然死亡。

そこで夫とともに急遽帰国することになりました。ようやく清の人質から開放され朝鮮に戻ってきました。夫の鳳林大君が世子に彼女は世子嬪になりました。

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孝宗の時代

王妃になって王を助ける

仁祖が死去。鳳林大君は即位して17代国王(孝宗)になりました。世子嬪張氏は王妃(仁宣王后)になりました。

二人は清国で共に人質生活を送った経験から互いの考え方を深く理解し非常に仲睦まじい夫婦関係を築いていました。

孝宗は清国からの独立を目指し北伐(清国を倒すこと)を計画していました。この壮大な目標達成のためには、国力を強化して軍備を整える必要がありました。

仁宣王后は夫の考えを強く支持。宮中での生活を徹底的に見直しました。費用のかかる儀式を簡素化、娯楽である劇を禁止するなど、宮中全体に質素倹約の風潮を根付かせました。また迷信や呪術を排除し、儒教の教えに基づいた生活を行いました。

でも酒を完全に禁止してしまうと民衆の不満が高まるため、年に数回は宴を開いて酒を振る舞い、民心を安定させようともしました。

仁宣王后の努力によって宮中の支出は大幅に削減され、北伐のための資金作りに貢献しました。しかし、一方では宮中が厳格な規則に縛られ、堅苦しい雰囲気になったという面もあります。

 

1649年。仁祖が死去。鳳林大君は即位して17代国王(孝宗)になりました。世子嬪張氏は王妃(仁宣王后)になりました。

仁宣王后は夫の孝宗とは9年間も一緒に人質生活を送りました。そのせいか、夫婦の考え方はかなり一致していたようです。歴代朝鮮王の中でも夫婦の意思疎通はトップクラスだったでしょう。

孝宗は北伐(清を倒すこと)を夢見て軍事力強化に励みました。当然お金がかかります。仁宣王后も積極的に協力しました。宮中では質素節約を実行しました。費用のかかる宮中の儀式を省略。劇も禁止。迷信を信じず、儒教の教えに反するまじないを禁止。祭祀用をのぞいて飲酒も禁止しました。

しかし完全に酒を禁止すると民衆の不満が高まるので宴を開いてその時は酒をふるまいました。

出費を抑えることには成功しました。その一方で、堅苦しいものになってしまったようです。

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仁宣王后による宮廷改革:秩序回復と王のサポート

仁宣王后は夫の孝宗が政治に集中できるよう、宮中内の秩序回復に努力しました。

なぜ宮廷の秩序が重要だったの?

宮中での側室たちの争いや混乱は王の政治に大きな影響を与えます。特に仁祖の時代は宮中が非常に不安定な状態でした。そこで仁宣王后は乱れた宮中を改善し、平和で秩序のある宮中を作り出すことを目指しました。

仁宣王后が行ったこと

  • 側室の待遇の見直し: 仁祖の時代に多くの部屋を与えられていた側室たちの住居を大幅に縮小。女官長の部屋と同程度の広さへと変更しました。
  • 慈懿大妃への敬意: 孝宗の継母である慈懿大妃を広い宮殿に移し、孝宗と共に慈懿大妃への礼を尽くしました。
  • 貴人張氏の自害: 宮廷の秩序を乱していた側室の一人、貴人張氏に自害を命じました。この決定は孝宗が行いましたが、仁宣王后も宮中内の勢力図を再編、自身の権威を確立したいと考えていたと考えられます。

仁宣王后は王の寵愛をいいことに宮廷の秩序を乱していた側室たちの力を落とし、宮廷の女主人は誰かというのを正すことに成功したのです。

仁宣王后の改革がもたらしたもの

これらの改革で宮中内の権力闘争がおさまり、秩序が回復されました。そして仁宣王后は宮中で絶対的な存在となって孝宗を支える存在としての地位を固めていきました。

孝肅王大妃:強い意志を持つ王大妃

1659年。孝宗が死去。

ところが19歳の世子は悲しむばかり。「恐れ多くて王になれなに」となかなか王位につこうとしなかったため、仁宣王后は息子を慈懿大妃のもとへ無理やり連れて行き王位につくよう促しました。こうして息子は18代王の顕宗となりました。

仁宣王后自身は王大妃となり「孝肅」の尊号を贈られました。

孝肅王大妃は息子が若く政治経験が浅かったため、初期には政治に深く関与しました。しかし、息子が成長するにつれて、徐々に政治への関与を減らしていきました。

それでも宮中内での影響力は依然として大きく内命婦を支配し続けていました。

孝肅王大妃は、姑として非常に厳しく、息子の嫁である明聖王后も彼女の前では大人しくしていたと言われています。明聖王后はのちに朝廷の政治を動かすほど強力な女性でしたが、孝肅王大妃の前ではその強さを出すことができませんでした。

孝肅王大妃(仁宣王后)は56歳でこの世を去りました。

仁宣王后の功績:混乱した王室に秩序をもたらした女性

孝肅王大妃は儒教的な価値観を深く信仰、宮中では厳格な規律を重んじた人物でした。迷信や非合理的なものを嫌い、宮中の風紀を正すために尽力しました。まるで厳格な風紀委員長のような存在だったと言えます。

孝肅王大妃の功績

  • 宮中の秩序回復: 仁祖の時代に乱れていた後宮の秩序を立て直し、平和な宮中環境を築きました。
  • 儒教的価値観の浸透: 儒教の教えを忠実に守り、宮中内に儒教的な規範を確立しました。
  • 非合理的なものの排除: 迷信や呪術など非合理的なものを排除し、合理的な思考を奨励しました。
  • 後世への影響: 孝宗・顕宗の時代における宮中の安定は孝肅王大妃の功績によるところが大きいと言えます。

孝肅王大妃の性格

孝肅王大妃は厳格で規律正しい性格の持ち主でした。そのため、面白みに欠ける人物と言われることもあります。でも混乱した宮中を立て直すためには、彼女のような強い意志と実行力を持った人物が必要だったのでしょう。

孝宗・顕宗時代の宮中と粛宗時代の宮中

孝肅王大妃の没後、粛宗の時代になると再び宮中が混乱に陥りますが、これは孝肅王大妃の統治がいかに重要であったかを示しています。

 

テレビドラマ

馬医 

MBC 2012年 演:キム・ヘソン

「馬医」でなにかと口うるさい大妃として登場。伝統を大切にして、なかなか外科治療を認めようとしません。姑としては口うるさい方だったと言われますので、ドラマのような人だったのかもしれませんね。

馬医で大妃を演じてるのはトンイで理解のある監察府のチョン尚宮も演じたキム・ヘソン。主人公に協力的な役から一点、主人公を認めない人の役になったのでギャップに驚きました。チャングムの母・ミョンイも演じてますね。

 

宮廷残酷史:花たちの戦い

JTBC 2013年 演:イ・ムンジョン

「宮廷残酷史」は後半から鳳林大君の妻として登場。

何考えてるのか分からない鳳林大君と違い、物分りの良い大人しい女性でした。

 

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