仁粋大妃は李氏朝鮮史上に残る女傑。昭惠王后韓氏ともいいます。
王の母、祖母として権力を握った有名な人物ですが、王妃にはなっていません。
世子嬪になったものの、夫が急死。そのままひっそりと暮らすのかと思われましたが、息子を王にして大妃の座に収まりました。
仁粋大妃として有名ですが本名はわかっていません。
韓国ドラマ「インス大妃」では「ハン・ジョン」という名前で登場します。
史実の仁粋大妃はどんな女性だったのか紹介します。
仁粋大妃(インステビ)の史実
生年月日:1437年10月7日
没年月日:1504年5月11日
名前:昭惠王后韓氏(ソヘワンフ)
称号:昭恵王后(しょうけいおうこう)
称号:仁粋大妃(にんすいたいひ、インステビ)
父:韓確(ハン・ファク)
母:南陽洪氏
夫:懿敬世子(7桃園君、代王・太祖の長男)
子供
長男:月山大君
次男:成宗(9代王)
長女:明淑公主
いつの時代の人?
彼女が生きたのは1437年~1502年。朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に5代文宗~10燕山君の時代です。日本では室町時代。応仁の乱あたりです。
同じ時代に生きた日本人
日野富子(1440~1496年)
粹嬪韓氏(スピンハン氏)のおいたち
1437年 。漢城(ソウル)生まれ。清州韓氏の役人・韓確の末娘として産まれました。
父の韓確は優れた外交官でした。明との交渉を担当し、明の皇帝からの信頼も厚かったといいます。最終的には左議政を勤めました。
韓確の二人の姉妹(仁粋大妃の伯母)は明の皇室に嫁ぎました。
永楽帝の側室・康惠莊淑麗妃。宣徳帝の側室・恭愼太妃です。
韓確は明の皇室との付き合いも深かったのです。
仁粋大妃も一族の優れた素質を受け継いでいたようです。幼い頃から文才に優れた賢い娘でした。
首陽大君の息子と結婚したいきさつ
1450年。14歳のとき、首陽大君の長男・桃園君と結婚しました。
5代文宗の時代。首陽大君(スヤンテグン)は重臣の金宗瑞(キム・ジョンソ)と対立していました。自分の地位を高めるために、朝廷の有力者だった韓確の娘と長男・桃園君を結婚させました。
1454年。長男・月山君(ウォルサングン)が産まれました。
嬪宮漢氏時代
1455年。首陽大君が即位。6代王・世祖になりました。
夫の桃園君が世子になったので、彼女は世子嬪になりました。
このころの仁粋大妃は嬪宮韓氏とよばれます。
同じ年。長女・明淑公主(ミョンスクコンジュ)を出産。
1457年。次男・乽山君(ジョルサングン、後の9代王・成宗)
嬪宮韓氏はスキのない女性でした。姑の世祖、姑の貞熹王后尹氏には誠実に仕えて、世祖からは”孝婦”とよばれ賞賛を受けました。夫の両親に孝行をつくす良い嫁だったのです。
その一方で子どもたちのしつけには厳しい母親でした。子どもたちのちょっとした過ちにも厳しく叱りました。
しつけがあまりに厳しいので、世祖や貞熹王后からは冗談めかして”暴嬪”といわれることもありました。
1456年。父の韓確が死亡。57歳。
1457年。夫の桃園君が急死。まだ20歳でした。
粹嬪時代
実の父や夫の死という不幸が次々に彼女を襲いました。
世祖は気の毒に思い、嬪宮漢氏がそのまま宮廷で暮らすことを許可しました。しかし嬪宮漢氏は断りました。
そこで世祖は嬪宮漢氏のために屋敷をたてそこに住まわせました。その屋敷は”慶運宮”とよばれ、現在では”徳寿宮”として残ります。
夫の死後、”貞嬪(ジョンピン)”の称号を受けましたが、後に”粹嬪(スピン)”の称号が与えられました。
1467年。粹嬪韓氏は病気になりました。屋敷で療養していると、世祖が護衛を引き連れて見舞いにきました。翌月には世祖と貞熹王后が見舞いにきました。世祖からはかなり大切にされていたようです。
諦めなかった権力の座
王妃になる夢を絶たれた彼女でしたが、権力の座への夢は諦めていませんでした。
まず、次男の乽山君を重臣の韓明澮の娘と結婚させました。
当時の韓明澮は世祖を支える重臣のなかでも一、ニを争う実力者でした。
世祖と貞熹王后への礼儀も忘れず「良い嫁」を演じました。特に次の王位継承に影響を持つ貞熹王后とは親密な関係を築きました。また、世祖の信頼する重臣・申叔舟(シン・スクチュ)とも親しくしました。
王・王妃、最も有力な二人の重臣を味方につけました。次に王位を継ぐはずの義弟は病弱でした。先が長くないかもしれない。もしものときには息子を王にしたいと思っていたのかもしれません。その人間関係が後に役立つことになります。
1468年。世祖は病が重くなり次男の海陽大君に攘夷しました。8代王・睿宗の誕生です。世祖は翌日死亡しました。
弟の睿宗が即位しました。
粹嬪は王の義姉となりました。その影響力は大きく、王の母・貞熹大妃、王の妃・章順王后とともに大きな影響力を持っていました。
粹嬪の弟の韓致義は、彼女の弟というだけで兵曹判書になりました。
1669年。もともと病弱だった睿宗が病に倒れます。敗血症だといわれます。
息子を王にするため暗躍
睿宗の病は重く、次の王を誰にするかが問題になりました。
世子の斉安大君はまだ3歳。いくらなんでも幼すぎます。
有力な候補となったのは粹嬪の息子、月山君と乽山君です。普通なら長男の月山君が選ばれるはずですが、後継者に選ばれたのは乽山君でした。乽山君の妻は韓明澮の娘です。それに対し月山君の妻の実家には力はありませんでした。
娘婿を王にしたい韓明澮とその仲間の申叔舟は乽山君を推薦します。
貞熹大妃もためらうことなく乽山君を支持しました。月山君は15歳。即位したら自分で政治を行なってもおかしくない歳です。乽山君はまだ12歳。必ず誰かの助けが必要です。睡蓮政治ができると考えたのかもしれません。
粹嬪にとってはどちらも自分の息子ですが、乽山君には有力な重臣たちが味方にいます。自分の座を安泰にするためにも、味方の多い乽山君にしました。
こうして様々な人々の思惑が重なって乽山君が後継者に決まりました。
12月31日。睿宗が死亡。わずか19歳。即位して1年2ヶ月しかたっていませんでした。
息子が即位・成宗の誕生
1670年1月1日。睿宗死亡の翌日。貞熹大妃の名で乽山君を睿宗の養子にすると発表されました。
ただちに乽山君は即位しました。
9代王・成宗の誕生です。彼女は宮廷に移り住みました。彼女の住んだ場所は”粹嬪宮”とよばれました。
彼女の住んでいた屋敷”慶運宮”は月山君のものになりました。
仁粋王大妃になる
彼女は王の成母にはなったものの、形の上では成宗は睿宗と章順王后の息子です。成宗が即位した時、挨拶をうけることが出来ませんでした。このことは宮廷内でも問題になりました。
亡き夫・懿敬世子に王の位を与えられ”懿敬王”となり、彼女は”仁粹王妃”となりました。
次に問題になったのは、章順王大妃と仁粹王妃はどちらが上なのかです。身分の順番にうるさい儒教では大妃にも順番があるのです。
1番はもちろん貞熹大王大妃。2番を誰にするかが問題になりました。
章順王大妃は先の王の妃ですが、仁粹王妃は兄の嫁になります。結局、章順王大妃より仁粹王妃の方が格上と決まりました。
でも仁粹王妃は王の母ですから王妃のままにしておくのはよくありません。
1474年。成宗によって懿敬王に「徳宗」の称号が与えられ。仁粋王妃は「王大妃」になりました。
世子嬪出身で王妃になったことがないにもかかわらず、仁粋大妃に”大妃”の称号がついているのはこのようないきさつがあったからです。
貞熹大王大妃、仁粋王大妃、章順王大妃が存在するという、朝鮮史上初の大妃三人時代がやってきました。彼女たちのために昌慶宮が作られました。
仁粋大妃は夫の世子を失いながら王の母となりました。このときまだ33歳。仁粋王大妃とよばれようになったのは37歳のとき。それでもまだ人生の半分を過ぎたあたりです。彼女は王の母あるいは祖母として30年以上宮廷に君臨しました。
大妃時代の彼女の実績については次回紹介します。
テレビドラマ
雪中梅 MBC 1984年 演:コ・ドゥシム
ハンミョンフェ KBS 1994年 演:キム・ヨウンラン
チャンノクス KBS、1995年 演:パン・ヒョジョン
王と妃 1998年 演:チェ・シラ
王と私 2006 演:チョン・インファ
インス大妃 2011 演:チェ・シラ、ハム・ウンジョン
逆賊 MBC 2017 演:ムン・スク
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