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明成王后閔氏(閔妃)凶刃に倒れた朝鮮王朝最後の王妃

2 李氏朝鮮の妃・側室

明成王后閔氏は李氏朝鮮王朝最後の王妃。

大韓帝国時代に「明成皇后」に冊封されたので「明成皇后」と紹介されることもあります。でも生前に皇后になったことはありません。

朝鮮王朝の末期。国自体が混乱していた時代に王妃になりました。

王の父・興宣大院君と20年以上対立し、失脚と復権を繰り返した王妃でした。

朝鮮王朝末期は外国の圧力が高まった時代、日本、清、ロシアなどさまざまな勢力が入り乱れ、最後は暗殺されるという悲劇の王妃です。

現在でもさまざまな解釈がある明成王后。
史実の明成王后閔氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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明成王后閔氏の史実

いつの時代の人?

生年月日:1851年10月19日
没年月日:1895年10月8日

称号:明成王后(ミョンソンワンフ)、明成皇后
父:閔致禄
母:韓山李氏
夫:高宗(26代王)
子供:純宗(27代王)

彼女は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の26代高宗の王妃です。

日本では明治時代の人になります。

王妃になった理由

1851年。閔致禄の娘として産まれます。
1866年。15歳で王妃になりました。

摂政をしていた王の父・興宣大院君に選ばれました。

閔氏は名門の一族でした。19代国王粛宗の王妃・仁顯王后の実家の子孫です。でもこのころになると没落していました。

しかも閔氏の父親は既に他界。家をついだ兄は養子です。閔氏の実家に力はありませんでした。

興宣大院君の妻の実家も閔一族。興宣大院君は王妃の一族が口を挟むことを嫌っていたのでちょうどよかったのです。親戚の中から力のなさそうな家の娘を選びました。

 

勢道政治(一族が要職を独占)で混乱していた朝鮮

当時、宮廷で権力を持っていたのは安東金氏でした。朝鮮王朝末期、王妃や大妃の一族が大量に宮廷に入り込み、官職を独占して政治を思うがままに操っていました。

勢道政治(せいどうせいじ)といいます。

勢道政治はかつての派閥争いとは違います。特定の一族が独占して権力を持つ世の中になっていました。すると一族とそれに取り入ろうとする者たちの利益のためだけに政治が行われました。興宣大院君はそれをやめさせようとしたのです。

しかし興宣大院君の改革は両班から反発を受けました。労役や税金が増えたことで庶民からも不満の声が出ていました。

高宗が成人に近づいても興宣大院君は権力を握り続けました。肝心の高宗は政治には関心がなく、宮女や妓生と遊んでばかりいました。

興宣大院君との対立

興宣大院君がいつまでも権力を手にしていたので高宗の周辺からは不満の声が出てきました。その先頭に立って興宣大院君と対立したのが明成王后を中心にした閔一族でした。興宣大院君は驚いたことでしょう。自分が選んだ王妃とその一族が自分に歯向かってきたのですから。

明成王后との対立の原因は跡継ぎ問題でした。

閔氏が王妃になったとき、高宗は既に貴人李氏を寵愛していました。

1868年。側室の貴人李氏が息子を産みました。喜んだ興宣大院君は貴人李氏の息子・完和君を元子(嫡男・清に認められるまでは世子とは呼べない)にしようとしました。貴人李氏の親族も力がなかったので興宣大院君には都合が良かったのです。

当然、まだ若かった明成王后は許すことはできません。明成王后は強く反対して、興宣大院君を諦めさせました。

1871年。明成王后に息子が産まれました。ところが、産まれて5日後に腸閉塞で死亡しました。明成王后は王子が死んだのは興宣大院君が人参を使ったせいだと考えて怨みました。

明成王后は興宣大院君と仲の悪かった興寅君や儒学者の崔益鉉を味方にして興宣大院君を攻撃し続けました。

1873年。起こり続ける引退の要求と高宗が22歳になり成人したことで摂政になる意味がなくなり、興宣大院君は引退しました。

しかし興宣大院君が引退した後も二人の仲は悪くなります。

1874年。明成王后の母と兄・閔升鎬が届いた荷物を開けると爆発し死亡しました。差出人は分かりませんが明成王后は興宣大院君への不信感を高めました。

1874年。明成王后に次男・坧(チョク)が産まれました。後の純宗です。

1880年。完和君が死亡すると興宣大院君が閔氏を疑いました。

1882年。親戚・閔台鎬(ミン・テホ)の娘を世子嬪にしました。

 

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勢道政治を行う閔氏一族

興宣大院君を追い出した後、明成王后は兄弟や親戚を要職につけました。閔氏一族による勢道政治が始まりました。

国を立て直すために必要な人材を抜擢するのではなく、一族にとって都合のいい者、興宣大院君の政治を否定するのに都合のいい者を選んだのでした。

閔氏がまず行ったのは興宣大院君がやろうとしていた改革を中断し、興宣大院君が廃止したことを復活させることでした。

当時朝鮮周辺には外国の船がやってきて問題もおきていました。興宣大院君は鎖国を維持しようとする立場でした。

ところが閔氏は開国しました。外国の文化を取り入れたい知識人からは喜ばれたのですが急激な開放は国内に混乱を引き起こします。

1876年。江華島條約(日朝修好条約)を結びました。釜山、元山などが開港しました。

ところが日朝修好条約は日本がアメリカと結んだ不平等条約とほぼ同じでした。しかもアメリカと日本の交渉で日本が拒否した内容も入っていました。朝鮮は勉強不足のまま開港したの不利な立場になってしまいました。

するとロシア、アメリカ、フランスなど諸外国が次々と条約を結びました。朝鮮国内では外国資本によって鉱山や鉄道、電気が開発されました。一見すると近代化されたように思えますが、利益はは閔氏一族と外国に吸い取られ朝鮮国民は疲弊していきました。

興宣大院君のやろうとしていた改革が中断し、急速な開国によって国内が混乱しました。人々の生活は興宣大院君の時代よりも悪くなりました。

壬午軍乱(壬午事変)・軍の反乱

閔氏は日本から軍事顧問を呼び寄せて軍隊の近代化を進めようとしました。ところが近代化されたのは一部だけでした。旧式の軍隊は1年以上も給料がもらえませんでした。

1882年。不満をためていた軍の一部と興宣大院君の勢力が反乱を起こしました。興宣大院君の勢力は明成王后暗殺を目指していました。

このとき多くの閔氏派や日本人が殺され、日本大使館も焼き討ちにあいました。

明成王后は侍女を身代わりにして宮廷を脱出。朝鮮国内に駐屯していた清の軍隊に助けを求めました。清の袁世凱(えん・せいがい)は軍をひきいて反乱軍を鎮圧しました。

興宣大院君は清に連行されて幽閉され、閔氏が復帰しました。

興宣大院君が朝鮮に戻ってくるのは4年後になります。

清の支配が進む

もともと清は朝鮮を完全な属国にしようと考えていました。そこに明成王后が反乱を清に助けを求めたので、清は好都合と思って朝鮮の属国支配を強めようとします。

朝鮮は清との間に不平等条約を結ぶことになり。清軍3000名、日本軍200名の軍を漢城(ソウル)に置くことになりました。

朝鮮の軍隊は清国式になり、袁世凱が軍のトップにつきました。清の外交顧問メレンドルフと、財政顧問・陳樹棠(ちん・じゅどう)が朝鮮の政治を動かしました。朝鮮の政治が清にコントロールされるようになりました。

メレンドルフは財政悪化した朝鮮のために「当五銭」という新しい通貨の発行を進めました。質を落とした貨幣でした。当然、室の悪い通貨が出回ると物価は高騰しました。

暗殺を恐れ宗教に没頭する明成王后

閔氏派の重臣や清から派遣された役人が朝鮮の政治を行っている間。明成王后は避難中に知り合った巫女を宮廷に呼び込んで宗教祭祀に没頭しました。祭祀は閔一族や高官も参加する大規模なものになり。朝鮮中から宗教関係者が集まるようになりました。

祭祀に必要な資金は莫大な額になりました。国家予算の数倍のお金を宗教行事や儀式につぎ込みました。親族の閔泳翊(ミン・ヨウンモク)は開国した港から入る税収を横領。明成王后個人のために使いました。

明成王后は反対派の暗殺を恐れ、ほとんど人前に出ません。ますます宗教にのめり込みました。

よく朝鮮末期に明成王后が政治を動かしていたように言われます。実際には政治は一族の者に任せ、自分は表には出ず宗教に凝っていました。明成王后がどのていど指示していたのかはわかりません。閔氏派が力を持つ根拠は明成王后の存在にあるので。良くも悪くも閔氏派の行ったことは明成王后の遺志と考えられるようになります。

 

甲申政変(甲申事変)・親日派の反乱

この朝鮮のありさまに危機感をもった開化派の金玉均(キム・オッキョン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)らが反乱を計画。

開化派は清を追い出すために日本に協力を求めました。日本公司・竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう)は軍資金と兵士を出すことを約束。

1884年。清はベトナムでフランスと戦争していたので朝鮮に派遣している軍の半分を引き上げることになりました。開化派はこの機会に反乱を起こしました。閔台鎬(ミン・テホ)、閔泳翊(ミン・ヨウンモク)は開化派の標的にされ殺害されました。

高宗と明成王后は宮殿に移され日本軍に囲まれました。明成王后は住処を昌徳宮に移してほしいと竹添進一郎に願い出ました。竹添はこれを認め高宗と明成王后は昌徳宮に移り清軍に連絡を取りました。ちょうど清に渡る予定だった船が遅れていたので清軍はまだ朝鮮国内にいました。

清軍は都に戻ってきて日本軍と交戦。数の多い清軍に日本軍は敗退しました。金玉均、朴泳孝は逃げ延びて日本に亡命。捕まった開化派の人たちは処刑されました。金玉均もその後上海で閔氏派によって暗殺されています。

このあと明成王后と閔氏派は日本を敵視するようになりました。清国の朝鮮への影響はさらに高まります。

メレンドルフは清国が朝鮮への影響力を高めていることを問題に考え、ロシアと同盟を結ぶことを提案。閔氏派はメレンドルフを通してロシアを密約を結ぼうとしました。しかしその企みは清の袁世凱に知られてしまい、メレンドルフは解任されました。

 

東学党の乱(東学農民戦争)

李氏朝鮮末期、朝鮮の人々は両班の搾取に悩まされていました。

そこへ日本と清の商人が朝鮮に進出。農民はお金になる日本や清の商人に作物を売りました。その一方で朝鮮市場に出回る米や豆が減り価格が上昇しました。さらに重税と汚職がはびこり、民衆の生活はますます苦しくなっていきました。

1894年。宗教家の崔済愚(チェ・ジェウ)が農民を巻き込んで反乱を起こしました。崔済愚が作った東学という宗教は、王室を倒して平等な世界を作ろうというもの。キリスト教(西洋の教え)に対抗して東の教えということで「東学」と言います。信者に農民が多いです。最初は地方の反乱でしたが東学の信者を通じて全国規模に発展しました。

朝鮮軍は反乱を止めることが出来ません。朝鮮朝廷は反乱を収めるために清国に助けを求めました。清国は軍を派遣しました。すると天津条約にもとずき日本も軍を派遣しました。

清の介入によって6月ごろには反乱は収まりました。

日清戦争と閔氏派の失脚

反乱は終わったので朝鮮は日本と清国に軍の撤退を求めました。ところが日本と清国は撤退を拒否。軍の撤退を巡って清国と日本が対立しました。

その間、日本軍は高宗の身柄を確保。興宣大院君を摂政、金弘集を朝鮮国内閣総理大臣にしました。

閔氏派は政治的な力を失いました。

1894年8月。朝鮮国内で日本軍と清国軍が衝突。日清戦争が始まりました。

1895年3月30。日清休戦条約がむすばれ日清戦争が終わりました。

1895年4月17日。下関条約が結ばれ、清は朝鮮の支配権を失いました。皮肉にも清国が日本に負けたため、朝鮮は清国から独立できたのでした。代わりに日本の影響力が高まります。

朝鮮は議政府の名前を内閣に変えました。

ロシアの援助で復権

日清戦争のあと。日本の影響力が高まるのを嫌がったフランス・ロシア・ドイツによって三国干渉が行われ。日本は朝鮮への影響力が低下しました。変わって朝鮮に影響力を持つようになったのはロシアでした。

王室内では明成王后を後ろ盾にする閔氏派たち親ロシア勢力が力をつけました。

1895年7月6日。明成王后はロシアの力を借りて興宣大院君を追放し、再び権力の座につきました。

開化派の朴泳孝は明成王后の暗殺計画をたてました。しかし兪吉濬が高宗に王妃暗殺計画を漏らしてしまったので失敗しました。朴泳孝は逃亡し日本に亡命しました。

閔氏派は日本人が訓練していた訓練隊を反対勢力と判断。日本公使・三浦梧楼に訓練隊解散の決定が伝えられます。

訓練隊は解散され、かわりにロシア人教官のもとで新しい軍隊を作ることを決定しました。

閔氏派は開化派の排除を計画します。しかしその計画は興宣大院君に知られてしまいました。興宣大院君は明成王后の殺害を決めました。

 

乙未事変・明成王后の暗殺

1895年10月8日。興宣大院君は自分を支持する日本人や朝鮮人に声をかけました。

三浦梧楼と会って計画を打ち合わせ。具体的な計画は三浦梧楼たちが考えたようです。興宣大院君の屋敷には日本軍人、明成王后に不満を持つ朝鮮軍人らが集まりました。解散された訓練隊の者もいます。300人ほど集まったといいます。

三浦梧楼と興宣大院君は兵を連れて景福宮に突入。興宣大院君はまず明成王后は殺されて当然だと主張。兵が突入しました。

明成王后は侍女の服に着替えて隠れました。兵たちは誰が明成王后かわからなかったので手当たり次第に殺害したといいます。犯行後、岡本龍之介が倒れている王妃の死体を発見、死亡が確認されました。享年44歳。

調査が行われ、前軍部協弁の李周会、日本公使館通訳の朴銑、親衛隊副尉の尹錫禹が犯行を自白。高宗は彼らを絞首刑にしました。事件を目撃した世子・李坧(後の純宗)は祖訓練隊の禹範善たちを「国母の仇」と批判。高宗は禹範善たち元訓練隊の幹部や軍部大臣の趙羲淵に死罪の勅命を出しました。禹範善は亡命先の日本で殺害されています。

日本軍が暗殺したことが注目されますが、実際には閔氏には興宣大院君や開化派、東学派のように朝鮮国内にも敵は多くいました。誰にも閔氏殺害の動機はあります。

興宣大院君たち反閔氏派を日本軍がうまく取り込んだといえますし、興宣大院君たちがうまく日本軍を利用したともいえます。こうなると誰が首謀者なのかわかりません。

親露派を排除したい日本軍と自分たちが権力を取り戻したい興宣大院君、解散させられた訓練隊の利害が一致したということでしょう。

実際に朝鮮国内では何度も朝鮮の人々が反乱を起こしていました。閔氏一族が権力の座にある限り似たような反乱はその後も起たことでしょう。

国内の反対派に暗殺されれば悪女として歴史に名が残ったでしょう。

でも「日本に殺された悲劇の王妃」として国民から同情を集めることができたのはせめてもの救いだったかもしれません。

この事件を乙未事変といいます。

李氏の王朝はこのあとも大韓帝国と名を変え続きます。しかし朝鮮という国名では最後の王妃になりました。

乙未事変のあと、閔氏一族は流刑になりました。日本によって金弘集が再び朝鮮国内閣総理大臣になります。しかし高宗がロシア大使館に亡命。朝鮮はロシアの支配をうけ、その後は日本に併合されます。李氏朝鮮王朝の末期は苦難の連続でした。

 

明成王后の評価

韓国ドラマでは悲劇のヒロインとして描かれる明成王后。韓国では下手な朝鮮国王も足元に及ばないくらい外交センスに優れた人だったと人気があります。実際には明成王后の権威を利用する閔氏一族とその仲間が行ったことです。

閔氏一族や高宗が行ったのは夷以夷制(夷を以て夷を制す=外敵を利用して外敵を倒す)。事大主義(強いものになびく)という方法。どちらも朝鮮伝統の方法です。

事大主義とはそのときに一番強い者になびいて身を守る考え方。日本が強くなれば日本に、清が強ければ清に、ロシアが強くなればロシアに助けを求め、都合の悪い勢力を追い出そうというもの。現代でいう「コウモリ外交」です。

古代から常に大国に脅かされていた朝鮮では強いものに従うのは仕方のないことかもしれません。日本、清、ロシア、次々と取引する相手を変えて外国勢力を呼び込みました。その結果、朝鮮は外国勢力の利権争いの場になって混乱してしまいます。

外国に利益を吸い取られ、外国との取引で得られる利益も閔氏一族とそれに従う人で独占し、国民の生活はひどくなる一方でした。

強いものを嗅ぎ分けるセンスは素晴らしいものがありましたが、残念なのはそれが朝鮮の国益にならなかったこと。自分や閔氏一族の保身や利益のために費やされ、国民のためにはならなかったことです。

悲劇的な最後をとげて同情が集まったのはせめてもの救いかもしれません。

死後に皇后になった

明成王后の死後。日清戦争で清が負けました。清は日本と下関条約を結び朝鮮の支配権を放棄しました。朝鮮は独立国となり「大韓帝国」と名前を変えました。

高宗は皇帝を名乗り、明成王后は皇后の称号を与えられました。そのため現代では明成皇后と書かれることもあります。

テレビドラマの明成王后

閔妃 1974 MBC  キム・ヨンエ
風雲 1982 KBS  キム・ヨンエ
風と雲と雨 1989 KBS  キム・ジスク
朝鮮王朝500年 1990年 MBC キム・ヒエ
きらびやかな人 1996年 KBS ハ・ヒラ
明成皇后 2001年 KBS  ムン・グニョン、イ・ミヨン、チェ・ミョンギル
済衆院 2010年 SBS  ソ・イスク
朝鮮ガンマン 2014 KBS  ハ・ジウン
商売の神-客主 2015 KBS  チェ・ジナ
風と雲と雨 2020年、TV朝鮮 演:パク・ジョンヨン 役名:ミン・ジャヨン

 

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