恭嬪金氏(コンビンキムシ)は14代国王 宣祖の側室。
15代国王 光海君と臨海君の母親です。
韓国時代劇「ホジュン」「炎の女神ジョンイ」にも登場します。
恭嬪金氏は仁嬪金氏とともに宣祖の寵愛を争いました。
しかし光海君を産んで2年後に死亡してしまいます。
史実の恭嬪金氏はどんな人物だったのか紹介します。
恭嬪金氏(コンビンキムシ)の史実
どんな人?
名:不明
称号:恭嬪、恭聖王后
本貫:金海金氏
生年月日:1553年
没年月日:1577年
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の側室です。
日本では戦国時代の人になります。
恭嬪金氏の家系図
![恭嬪(コンビン)金氏の家系図](https://korea.sseikatsu.net/wp-content/uploads/2019/06/konbin-family-tree.webp)
恭嬪(コンビン)金氏の家系図
家族
おいたち
1553年。司圃署の役人・金希哲(キム・チヒョル)の娘として生まれました。 司圃署は宮中の菜園・園芸を管理する部署。金希哲は正六品相当の低級の役人です。
いつかはわかりませんが、宣祖の側室になりました。
1574年。淑儀(従二品)だったときに臨海君を出産しました。
男児を出産したので貴人(従一品)になりました。
恭嬪は宣祖の寵愛を独り占めしていました。他の側室達はなかなか宣祖に会うことができません。
そのため他の側室との仲は悪かったようです。
1575年。光海君を出産。恭嬪(正一品)になりました。
光海君を産んだ後、恭嬪金氏は病気になりました。
あるとき恭嬪金氏は危篤状態になったことがありました。そのときは回復しましたが、恭嬪金氏は誰かが自分を呪っていると騒ぎ立てました。宣祖に対しても「誰が犯人か調べてくれないから私は死ぬのだ」と訴えると、宣祖は他の側室たちに冷たくするようになりました。
仁嬪金氏との対立
しかし側室たちに冷たい宣祖に対して昭容金氏(後の仁嬪金氏)は手厚くもてなしました。もともと恭嬪金氏と仲の悪かった昭容金氏は宣祖に対して恭嬪金氏の悪口を吹き込みます。宣祖の心は、気が強くわがままな恭嬪金氏よりも優しくしてくれる昭容金氏に傾いていきました。
やがて宣祖は病気になった恭嬪金氏を気の毒と思う気持ちが薄れ、昭容金氏を寵愛するようになります。昭容金氏ややがて仁嬪金氏となりますが、宣祖の寵愛は恭嬪金氏のときよりも深かったといわれます。
1577年(宣祖10年)。光海君を産んで2年後に恭嬪金氏は病気で死亡しました。享年23。
父の金希哲(キム・チヒョル)は壬辰戦争(朝鮮出兵、文禄・慶長の役)のときに義勇兵として戦い戦死しました。そのため光海君の後ろ盾となる外戚がいなくなりました。
このことも光海君の立場が不安定だった理由の一つになります。
光海君が即位して王妃になった
1608年。恭嬪金氏の息子・光海君が王になりました。
光海君は自分の母に「恭聖王后」という称号を贈りました。墓も王妃にふさわしい立派なものに作り変えました。
![恭嬪金氏の墓](https://korea.sseikatsu.net/wp-content/uploads/2019/06/konbin-tomb.webp)
恭嬪金氏の墓
しかし1623年に光海君が廃位になると恭聖王后の称号は取り消され、彼女の墓も格下げになりました。
しかし墓の外観はそのままにされ、王族並みの墓が残っています。
まとめ
恭嬪金氏は短い生涯の中で激しい権力闘争を経験しました。宣祖の寵愛を独占、他の側室との対立を深めながらも息子・光海君を育て上げました。
しかしその座は長くは続かず、仁嬪に王の寵愛を奪われてしまいます。最後は病となって若くして亡くなりました。
彼女の死後、光海君は王位に就きましたがその座は長くは続きませんでした。
彼女の生涯は、宮中での激しい権力闘争や、女性としての苦悩、そして母としての愛など、様々な側面を見せてくれます。
テレビドラマ
許浚・宮廷医官への道 MBC 1999年 演:パク・チュミ
許浚・伝説の心医 MBC 2013年 演:チャン・チウン
火の女神ジョンイ MBC 2013年 演:ユ・シンエ
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