韓国ドラマ『王女の男』に登場するチョン・ジョン(鄭悰)はスンユの親友でキョンヘ王女を献身的に支える人物です。
このチョン・ジョンは実在の人物です。ドラマと同じように史実でも首陽大君への反抗を行い、凄惨な最期をとげました。
ドラマのチョンジョンと史実の姿を紹介。彼の意志を継いだ息子のその後についてもお話します。
この記事で分かること
- ドラマ『王女の男』におけるチョン・ジョンの役割とキョンヘ王女との愛の軌跡
- 実在した鄭悰(チョン・ジョン)の家系や官職などのプロフィール
- 史実における首陽大君(世祖)との対立と、処刑に至るまでの経緯
- 父の死後、名誉を回復し功臣となった息子・鄭眉寿(チョン・ミス)の運命
チョン・ジョン(鄭悰)はどんな人?実在する?
ドラマ『王女の男』でキョンヘ王女の夫として登場するチョン・ジョンは実在の人物です。ドラマでは野心がなく誠実な人物として描かれます。でも端宗の姉・キョンヘ王女の夫になってしまったために、好むと好まざるとにかかわらず過酷な政争の当事者になってしまいます。
- ドラマでは: 貧しい両班の息子。愛する妻と親友、幼い端宗を守るために命を懸ける正義感の強い人物。
- 史実では:文宗の娘婿(駙馬)となり、首陽大君(世祖)への反乱を企てた罪で処刑された悲劇の文官です。
この記事ではドラマで描かれたチョン・ジョンと、史実の鄭悰(チョン・ジョン)の姿を紹介します。
『王女の男』のチョンジョンはどんな人?
ドラマ「王女の男」のチョンジョンは、
スンユとシン・ミョンの親友
チョン・ジョンは主人公キム・スンユと、後に敵対することになるシン・ミョンの親友です。ドラマ冒頭ではこの3人の友情が描かれますが。やがてシン・ミョンの裏切り、スンユへの過酷な仕打ちによって3人はバラバラとなってしまいます。
貧しい両班の息子として描かれる背景
チョン・ジョンは両班ですが家計は苦しく、病気の母親を抱えているという設定です。そんな苦しい生活をしていても、ユーモアを忘れず笑顔を絶やさない「いい人」として描かれます。
敬恵公主の夫になった経緯
もともと敬恵公主の夫(駙馬)候補はキム・スンユでした。しかし首陽大君の陰謀によってスンユが候補から外されチョン・ジョンが夫に選ばれます。
自分の意志ではどうにもならず、最初から周囲の思惑によって人生が左右されてしまう人物として設定されているのです。
敬恵公主への態度:片想いから始まった献身
結婚したばかりのころ。プライドの高いキョンヘ王女は家柄も見た目もパッとしないチョン・ジョンには冷たい態度を取ります。でも彼はどんなに冷たくされても王女を尊重して優しく見守り続けます。彼の見返りを求めない愛が王女の心を次第に温め、二人の間に深い絆が生まれるのはこのドラマのもう一つの見どころです。
政治や権力に野心がないのに首陽大君に対立する理由
チョンジョンは本来は争いを好まない人物ですが、命懸けの首陽大君暗殺計画に加わります。彼自身は権力を望むわけではありませんが「愛する妻が命よりも大切にしている弟を守りたい」という非情に個人的な想いが彼を突き動かしています。また一途なだけに困難と分かっていても抜け出せない。犠牲になった仲間や師匠のぶんも頑張るという彼の性格がさらに悲劇性を高めています。
チョン・ジョンは何をした?
ドラマでの彼の軌跡をたどると、一人の男が覚悟を決めていくプロセスが見えてきます。
1. 結婚後の立場の変化
キョンヘ王女の夫になったので、自動的に王室の一員(駙馬)になりん。政治的に中立を保つことが不可能になります。
2.端宗を守るための行動
キムジョンソが殺害され首陽大君が実権を握ると、端宗は孤立無援になってしまいます。幼い王を支えるためスンユらと連絡を取り合い、反首陽勢力の一員として活動を初めます。
3. 首陽大君暗殺計画に関わる
チョンジョンは首陽大君を排除するための一度ならず二度までも計画に参加。しかし計画はバレてしまい、彼は反逆者として追われる身となります。
4.流刑と処刑
流刑地に流されても再起を図りますが、最後には謀反人として捕らえられます。悲劇的な最後をとげました。
チョン・ジョン(鄭悰)は実在する?
次に史実の鄭悰(チョン・ジョン)を紹介します。
プロフィール
- 姓:鄭(チョン)
- 名:悰(ジョン)
- 生年月日:不明
- 没年月日:1461年10月19日(閏11月)
- 享年:不明
- 主な官職:刑曹参判など
家族
- 父:鄭忠敬(チョン・チュンギョン)
- 母:驪興閔氏(ミン氏)
- 正室:敬恵公主(キョンヘコンジュ)
- 子供:鄭眉寿(チョン・ミス)
家系図

チョンジョンとキョンヘ王女の家系図
チョンジョンの生涯
鄭悰(チョン・ジョン)は刑曹参判を務めた鄭忠敬の息子です。
世宗の時代。1450年に世子 李珦の娘である平昌郡主(後の敬惠公主)と結婚。世宗から順義大夫・寧陽尉の爵位を与えられます。
文宗 李珦が即位すると崇徳大夫に昇進。邸宅を与えられました。端宗の時代には刑部尚書となり王から厚い信頼を得ていました。彼の家には端宗がしばしばそ訪問するほどでした。
チョンジョンの最後
1453年。首陽大君(世祖)がクーデターをを起こし、金宗瑞(キム・ジョンソ)や皇甫仁(ファンボ・イン)ら重臣を殺害。実権を握りました。
1455年。鄭悰(チョンジョン)は錦城大君、漢南君らとともに首陽大君を倒す計画を立てました。しかしその計画は露見してしまい首陽大君の命令で寧越に流罪となりました。その同じ日に首陽大君は王位を奪い世祖として即位します。
その後、敬惠公主の病気などを理由に一時的に呼び戻され義禁府に拘禁。弾劾を受けて水原、次、光州に流されました。
1461年(世祖7年)。錦城大君とともに端宗の復位を計画したことが発覚。鄭悰は陵遅処死(五牛分屍)という非情に残酷な刑に処され、親族も宗籍から除外されました。
1758年、第21代国王・英祖によって名誉が回復され、献愍という諡号が贈られました。
チョンジョンの子供は中宗反正に参加
鄭悰(チョン・ジョン)と敬恵公主(キョンヘコンジュ)には一人息子の鄭眉寿(チョン・ミス)がいました。
鄭眉寿が生まれた時は、鄭悰はすでに流罪になっていました。そのため鄭悰は息子を見ることはできませんでした。
鄭悰の処刑後。
世祖8年。世祖の特命によって鄭眉寿は連座を免れ、敬恵公主に連れられて漢城(ソウル)に戻りました。
1473年(成宗4年)には官職に就いています。このときも罪人の子として職に就くのを反対する意見がありましたが、摂政をしている貞熹大妃(世祖の正室)が反対意見を退けました。その後も鄭眉寿は感触を歴任。中宗反正にも参加・功臣となり海平府院君の称号を与えられています。
鄭悰の正義感の強さは息子にも受け継がれているようです。
その後、鄭悰は57歳まで生きました。
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