金亀柱(キム・ギジュ)貞純王后の兄はイサンの外戚洪一族と敵対して破滅

4 李氏朝鮮の重臣

金亀柱は李氏朝鮮の政治家。

21代英祖の継妃・貞純王后の兄です。

皇后の兄弟という立場があり仲間もそれなりにいました。そこで派閥を作って李祘(イ・サン)の外戚勢力の洪一族と敵対していました。

そのためドラマでは正祖(イ・サン)の敵対勢力としてよく登場します。

ところが意外と金亀柱本人が正祖と敵対したという記録は見当たりません。

史実の金亀柱どんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

金亀柱(キム・ギジュ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1740年
没年月日:1786年

姓:金(キム/きん)
名:亀柱(ギジュ/きちゅう)
本貫:慶州
号:可庵
父:金漢耉,
母:原州 元氏
妻:

子供

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖~22代正祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

忠清道出身。

幼いころから文章の才能があり、忠清道では噂が広まっていました。自分でも他の士大夫(科挙で受かった役人・儒教を学んだ有力者・文人など、儒教を身に着けた特権階級)に負けない才能だと自慢していたと言います。

1761(英祖37年)。思悼世子が無断で平壌に行った時。当時政丞だった鄭輝亮(チョン·フィリャン)と洪鳳漢(ホン·ボンハン)がこれを止めず、英祖に知らせなかったと密封上訴を英祖に直接送ろうとしました。

1763(英祖39年)。科挙の文科で合格。

弘文館副教理に任命。その後、江原監司·都承旨を務めました。

王妃・貞純王后の外戚の地位を利用して政治派閥の南党を結成。

世孫・李祘の外戚・洪鳳漢(世孫李祘の外祖父)たちと対立します。

洪鳳漢を弾劾することに熱心で「攻洪派」と呼ばれました。

韓愈をそそのかして洪鳳漢を弾劾。政界から失脚させようとしました。

洪鳳漢が思悼世子の庶子・恩彦君たちを援助していたことがわかりました。洪鳳漢としては自分が仕えた思悼世子の子供を助けているつもりだったかもしれません。でも考え方しだいでは王族を担いで謀反を起こそうとしているように捉えることもできます。

洪鳳漢の思惑はわかりませんが。金亀柱にとっては洪鳳漢を攻撃する絶好のチャンスです。「洪鳳漢が王世孫を排除しようとしている」と批判。洪鳳漢はこの件で清州に流罪になりますが、英祖が「恵嬪のため」という理由で撤回しました。

1775年。英祖は高齢を理由に王世孫に代理政聴をまかせようとします。洪麟漢(ホン·インハン)、鄭厚謙(チョン·フギョム)たちが反対しました。

鄭厚謙は英祖の娘・和緩(ファワン)翁主の養子。和緩翁主は思悼世子の妹です。でも和緩翁主は生前の思悼世子に嫌な思いをさせられていたので、世孫も好きではありません。

洪麟漢は洪鳳漢の弟です。でも兄とは別行動をとり鄭厚謙とともに政治の主導権を握ろうとしていました。

このとき金亀柱は洪麟漢や鄭厚謙と同じ行動はとりませんでした。

正祖の時代

1776年。英祖が死去、正祖が即位しました。

正祖は強力な重臣たちの力を削ぎ落とすため洪国栄(ホン・グギョン)に権力を与えました。

洪国栄は、金亀柱を鄭厚謙、洪麟漢、鄭麟煥(チョン·イファン)たちと結託して正祖を排除しようとした。という罪で黒山島に流罪にしました。

金亀柱は鄭厚謙や洪麟漢と仲がいいわけではありません。でも金亀柱が洪鳳漢と敵対していたのは事実です。

洪国栄にとっては彼らが実際に協力したかどうかはどうでもよいい。正祖の敵には違いないのだからまとめて排除する。と考えたのです。

1784年。世子冊封で特例が認められ、流刑地が島から陸地の羅州に移動。

1785年。流刑地で病死。

まとめ

金亀柱は一貫して洪一族と敵対してたようです。でも具体的に正祖に敵対する行動はとっていません。ところが正祖の外戚・洪鳳漢と激しく対立していたことから正祖の抵抗勢力とみなされたようです。正祖即位後、過去の行いが問題にされて流罪になってしまうのでした。

テレビ

イサン 2007年、MBC 演:チョン・ミョンファン
秘密の扉 2008年、SBS 演:チェ・ジョンウ

コメント

タイトルとURLをコピーしました