紀綱(き・こう)は明朝時代の役人。
錦衣衛の長官でした。
錦衣衛は明朝に存在した秘密警察。
永楽帝の反対勢力を次々に逮捕、処罰して永楽帝の信頼を得ました。
その一方で横領したり罪人の財産を没収して自分の物にしたりして私服を肥やしていました。
しかし紀綱はあまりにも力を持ちすぎ、傲慢になったので永楽帝からも見放されてしまい処刑されます。
史実の紀綱はどんな人物だったのか紹介します。
紀綱(き・こう)はの史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1416年
姓 :紀(き)
名称:綱(こう)
国:明
地位:錦衣衛 指揮使
彼は永楽帝時代の錦衣衛です
日本では室町時代になります。
生年、両親は不明。
出身は山東省臨邑。
弓矢と乗馬が得意でした。
燕王の挙兵に参加
建文2年(1400)。燕王 朱棣が挙兵。建文帝に反乱を起こしました。
燕王は20万の兵を率いて臨邑の北東20里のところで兵の訓練を行ってました。周囲10里は燕王軍が暴れまわって荒廃していまいた。
このとき紀綱と同郷の友人・穆粛は燕王軍に参加しました。紀綱は燕王に気に入られていたようです。
燕王軍が済南を攻めた時、山東参政の鉄鉉が抵抗していました。
高賢寧が書いた「周公輔成王論」が矢で城外に飛ばされました。燕王は「周公輔成王論」を手に入れて読み大変気に入りました。
紀綱は高賢寧とは一緒に学問を学んだ仲でした。
燕王軍の攻撃は弱まり、やがて燕王軍は済南を攻め落とさずに北平(北京)に戻りました。その後、燕王は高賢寧を捕らえて官職を与え自分の配下にしようとしました。紀綱は高賢寧に燕王のもとで働くように勧めましたが、高賢寧は燕王を皇帝を裏切った不忠者だと想っていたので断りました。紀綱は高賢寧の意思は変えられないと思って燕王に説明。燕王は高賢寧を釈放して家に返しました。
永楽帝の時代
錦衣衛になる
建文4年(1402年)。燕王 朱棣は皇帝(永楽帝)に即位しました。
永楽帝は反乱で皇帝の地位を奪い取りました。当然、永楽帝に反感を持つ者は大勢います。永楽帝は自分の権力を維持するため独裁を強化。秘密警察の錦衣衛をさらに権限を強めました。
錦衣衛はもともとは皇帝の護衛部隊でした。皇帝や王朝に敵意を持っている人物や謀反をおこおしそうなものを取りしまるのも役目になりました。永楽帝の時代。錦衣衛の権限は警察権、司法権、スパイ活動、尋問や監獄の管理まで拡大しました。ソ連のKGBのような組織になっていました。
似たような組織は他の王朝にもありますが。明朝時代の錦衣衛は特に大きな力を持ち人々に恐れられていました。
紀綱は錦衣衛千戸(隊長)に昇進。牢獄を管理するようになりました。
陳瑛と協力して建文帝に仕えた数十人の役人を殺害しました。
永楽帝の反対派を粛清して信頼を得る
永楽帝は反乱で皇帝になりました。自分を批判する者、反抗的な者には敏感で厳しいです。紀綱はそんな永楽帝の考え方を読み取り、永楽帝がどうすれば喜ぶのか考えました。
各地に張り巡らされた錦衣衛のスパイ組織をうまく使い軍や世間の情報を集めるのが得意でした。その情報は御史の情報よりも早く正確でした。
永楽帝を批判する者。反対派を容赦なく取り締まり厳しく処罰していました。
紀綱は建文帝を支持していた者たちを捕まえ処刑していきました。とうとう建文帝を支持していた者はいなくなり、永楽帝に忠誠を誓う臣下ばかりになりました。
もともと建文帝は錦衣衛は力を持ちすぎると思って組織の力を弱めて縮小したことがあります。明史上最も錦衣衛に恨まれている皇帝は建文帝と言っていいかもしれません。その錦衣衛に力を与えさらに拡大させたのが永楽帝です。紀綱でなくても錦衣衛の人たちは喜んで永楽帝のために働き建文帝派の弾圧をやったことでしょう。
永楽帝は紀綱の働きに大満足でした。すると紀綱はますます永楽帝に気に入られようと逮捕者を増やします。
永楽帝は紀綱の逮捕者が多ければ多いほど、自分に忠実に働いていると思って紀綱を信頼しました。
やがて都指揮僉事になり錦衣衛のトップの地位につきました。
皇帝の信頼を利用して横領
紀綱は永楽帝に忠実で信頼されていました。
しかし紀綱はその立場を利用して横領していました。沢山の商家を陥れて潰しその財産を自分のものにしました。良家の子供を捕らえて宦官にして自分に仕えさせました。
永楽5年(1407年)。徐皇后が病死。永楽帝は全国から美人を集めて皇后選びをしました。各地から選ばれた女性が都にやってくると紀綱はその中から気に入った者を選んで自分の妾にしました。
解縉の殺害
解縉は内閣首輔(宰相のいない明では臣下の中でトップの地位)を務めた重臣でした。
永楽8年(1410年)。漢王 朱高煦は太子の座を狙っていましたが。解縉は皇太子 朱高熾を支持していて朱高煦の太子には反対でした。漢王 朱高煦が訴えで、錦衣衛によって朱高煦とその仲間は投獄されました。
永楽13年(1415年)。紀綱が牢獄にいる者のリストを永楽帝に見せました。すると永楽帝は「解縉のやつはまだいるのか」と言うと。紀綱は解縉に酒を飲ませて酔わせ、雪の降り積もった屋外に引きずり出して凍死させました。解縉の財産は没収され妻子は流罪になりました。
かつて内閣首輔まで務めた人物が些細な事で殺されてしまいました。紀綱も逆らうものは誰もいなくなりました。
永楽帝は気に入らない臣下がいると紀綱に粛清させました。紀綱は処刑した者の財産を没収、自分の物にしました。こうして味をしめた紀綱は次々に臣下を陥れていきます。
あるとき、紀綱と陽武侯 薛祿は美しい女道士を巡って対立。薛祿を瀕死の状態に追い込みました。
周新を陥れて処刑
永楽11年(1413年)。紀綱は事件の調査のため部下を浙江省に派遣しました。部下が現地で賄賂をとると、浙江省の按察使(役人の監督をする人)周新が逮捕しようとしたので紀綱の部下は逃げてきました。そこで紀綱は周新の逮捕を命令。
永楽帝に嘘の報告をして周新の逮捕の命令をもらいます。
そして都に連れてこられた周新は皇帝に無実を訴えましたが激怒した永楽帝は処刑を命令しました。
周新は評判のいい役人でしたが、按察使の周新よりも紀綱を信じたのです。
王様気取り
紀綱は呉王(朱元璋が皇帝に即位する前に名乗っていた称号)の冠を盗むと自分の家に持って帰りました。そして時々は呉王の冠服を着て酒を飲みながら部下たちを左右に並ばせ「万歳」と言わせました。
「万歳」と呼ばれるのは皇帝だけ。太子や親王クラスでも「千歳」と呼ばなくてはいけません。自分を皇帝と呼ばせるのに等しい行いでした。でもその時は誰も怖くて報告できませんでした。
永楽帝に愛想を尽かされる
永楽14年(1416年)5月5日。端午節。永楽帝は「射柳」という北方に伝わる射撃を競う行事を開催しました。
紀綱もこの行事に参加。ところが紀綱は的を外したにもかかわらず判定係は命中を大きな声で宣言して太鼓を叩きました。紀綱は事前に買収していたのでした。
紀綱は明らかに不正をしたのですがそこに出席した人々は誰も文句言いませんでした。
そして紀綱は「誰も私に恥をかかせようとしないな」と言ってしまいます。
永楽帝は紀綱の力が予想以上に大きくなっていることに気づきました。周新を処刑したあたりから、紀綱には疑問を持つようになっていたのかもしれません。
このころ永楽帝は紀綱の粛清を決意します。
永楽帝に粛清される
さらに2ヶ月後。皇帝の宦官数人が名乗りを上げ、紀綱の罪を訴えるようになりました。
紀綱が後宮にいるべき美女を隠している。無法者を多数雇っている。武器を溜め込んでいる。など。
宦官たちの非難はあいまいなものでした。でも永楽帝はろくに調査せず紀綱を逮捕して都察院(警察と裁判所を兼ねた組織)に送り、すぐに裁くように命じました。紀綱の裁判は1日足らずで終わり、その日のうちに「大逆罪の謀議」で処刑されました。
そして紀綱は凌遅刑(りょうちけい)という恐ろしく残酷な方法で処刑されました。凌遅刑とは生きたまま肉を少しずつ切り落としていく方法。苦痛が長時間が続く残酷な処刑方法で、中国王朝や李氏朝鮮で行われました。謀反人など最高に重い罰に行われる処刑法です。
永楽帝の怒りがどのくらい大きかったかわかります。
東廠ができる原因になった?
そして紀綱の死から数年後。
永楽18年(1420年)。永楽帝は東廠(とうしょう)という組織を作りました。宦官が長官を務める組織で。錦衣衛を支配下においています。永楽帝は錦衣衛も信用できなくなったので信頼する宦官に権限を持たせて錦衣衛をコントロール。謀反が起こらないように臣下や国民を監視させました。そして明はますます監視社会になっていきます。
テレビドラマ
王朝の謀略 2018年、中国 演:丁勇岱
錦衣夜行 2015年、中国 演:魏千翔
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