厳嵩(げん・すう)は明朝時代の政治家。
明時代の政治家では特に悪名高い人物です。
嘉慶帝に仕え、内閣首輔(首相)の地位まで上り詰めました。
中国では有名な賄賂政治家で様々な物語で悪役の代表として描かれてきました。
史実の厳嵩はどんな人物だったのか紹介します。
厳嵩(げん・すう)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1480年(成化16年)
没年月日:1567年(隆慶元年)
姓 :厳(げん)
名称:嵩(すう)
字:惟中
国:明
地位:内閣首輔
父:巌淮
母:晏氏
妻:欧陽氏
子供:巌世蕃
日本では室町時代(戦国時代)になります。
おいたち
1480年(成化16年)。江西省袁州府分宜県で生まれました。
厳嵩の幼いころ。父の巌淮は官職についていませんでした。厳家は生活に困り母の実家に頼っていました。
厳嵩は勉強好きで理解力の高い子供でした。
科挙に落第していた父の巌淮は息子に期待。5歳から厳氏の一族の館で大切に育てられ教育を受けました。
厳嵩が8歳のとき。宜県知県(知事)の莫立之から、才能のある子だと評価されて学校に入学させてもらいました。授業料は全額免除でした。
その後もより高い学校に進学。高い成績をおさめました。
弘治18年(1505年)。25歳のとき。科挙に合格。父の夢を叶えました。
厳嵩は役職についてこれから働こうとしていた矢先、重病にかかって辞職しました。
正徳7年(1512年)。袁州県の知事・姚廷(ようてい)は厳嵩に県の記録をまとめた本の編集を依頼。編集者になりました。
その後、厳嵩は北京や南京の役所で働きました。
嘉慶帝時代
様々な部署に携わった後。明の朝廷が行った「宋史」の編纂に関わりました。
このころ。嘉慶帝は政治は重臣たちに任せて、自分は道教に夢中になっていました。
嘉慶帝がひいきにする夏言に取り入って出世
嘉慶帝は道教に詳しい夏言(か・げん)を贔屓にしていました。そこで厳嵩は夏言に取り入ろうとします。
ある日。厳嵩は家で宴会をひらきました。夏言も招待しましたが、夏言は断りました。厳嵩は夏言の家まで行って門の前で跪きました。夏言は自分の行いが恥ずかしくなって、厳嵩に謝りました。
それ以来、厳嵩は夏言の腹心となって働きました。夏言は多くの人を厳嵩に紹介しました。夏言の推薦もあって厳嵩は出世。厳嵩は嘉慶帝にも気に入られました。
嘉靖15年(1536年)。夏言は内閣首輔(首相)、巌嵩は禮部尚書(祭祀を司る役所のトップ)になりました。
香叶冠事件
ある日、嘉慶帝は自分で手作りした「香叶冠」を夏言と巌嵩に与えました。
香叶冠とは道士(道教の儀式を行う人)がかぶる冠です。
夏言は香叶冠を一度も使いませんでした。
夏言は青詞を作る知識がありました。だから嘉慶帝からも信頼されていました。でも政治を放り出してまで道教に夢中になる嘉慶帝の活動には批判的でした。
青詞:道教で使う呪文を書いた紙・護符。青い紙に赤い染料で書くので青詞といいます。様々な願いに合わせた文言を書きます。書き方は人によって違います。
でも巌嵩は嘉慶帝と会う時は香叶冠をかぶりました。ごていねいに香叶冠にうすい布をかぶせて保護する念のいりようです。
それに嘉慶帝は夏言の作る青詞には満足していませんでした。でも嘉慶帝は巌嵩が作った青詞に才能を感じて巌嵩に青詞を作る師匠を紹介。巌嵩の青詞作りの技術はさらに上達しました。
嘉慶帝は巌嵩が作った青詞に満足。嘉慶帝は夏言をだんだん遠ざけるようになりました。
巌嵩は道教の信者ではありません。若くして科挙を合格しました。むしろ儒教を信じていたでしょう。でも巌嵩はひたすら嘉慶帝に気に入られるために嘉慶帝が喜ぶことをしました。
夏言を排除
嘉靖20年(1541年)に嘉靖帝が西苑の万寿宮に移り、朝議に出てこなくなりました。
巌嵩は太子太保(皇太子の世話係)も兼任するようになると夏言を批判するようになります。
そして巌嵩は嘉慶帝を説得して夏言を解任させました。
嘉靖22年(1543年)。張璧とともに吏部尚書になりました。禮部尚書との兼任です。
嘉靖24年(1545年)。許贊と張璧が老衰で死亡すると、嘉慶帝は再び夏言を採用。
このころになると夏言は巌嵩の性格が分かってきて警戒するようになっていました。夏言は表向きは巌嵩に素直に従っていました。
モンゴルが朝貢貿易をするように明に要請。明が拒否したのでモンゴルが中原を荒らし略奪しました。
1544年。モンゴルが河套を占領。
夏言は曾銑を採用して河套の奪還計画を話し合いました。
嘉慶帝も河套を奪還するよう命令しました。
嘉靖27年(1548年)。巌嵩は皇帝の近待に賄賂を贈り買収。国境の将軍に「曾銑が敗戦したのに報告しなかった」「兵糧を横領した」と訴えさせました。
そして巌嵩は「夏言と曾銑が奪還作戦を行ったのは下心があったからです」と嘉慶帝に報告。
嘉慶帝はその報告を信じて曾銑を処刑、曾銑の妻子は2千里の追放。夏言を投獄しました。夏言はその後、嘉慶帝の命令で斬首になりました。
巌嵩はさすがに夏言の命を奪うことまでは考えてなかったようですが。結果的に夏言は死亡しました。
権力を得る
嘉靖28年(1549年)巌嵩は内閣首輔になり単独で権力を握りました。
巌嵩は内閣首輔になった後も嘉慶帝には熱心に仕えました。嘉慶帝は道教の活動に夢中になっていたので政治はできません。なんと嘉慶帝は嘉靖21年から紫禁城には住まずに20年間朝議にも出席しませんでした。
嘉靖帝が朝議に参加しないのは嘉靖帝の意志です。でも大臣たちの批判は巌嵩に集まってしまいます。
といっても内閣首輔は「宰相」ではなく、皇帝の秘書機関のトップなので独裁的な権力を振るえるほど強くはありません。紫禁城と皇帝の間を行ったり来たりして重要な部分は皇帝の決済を受ける形です。
このころ嘉慶帝の姿を見ることができたのは巌嵩、近侍と道士(道教の司祭)だけでした。
巌嵩は高齢になると息子の巌世蕃を昇進させて高い地位につけました。
巌世蕃は宦官に賄賂をもたせて嘉慶帝の日常生活や何を食べ飲んだかまで報告させました。
大臣たちは「大丞相」と「小丞相」がいると噂しました。
「皇帝は巌嵩なしでは生きられないし、巌嵩は息子なしでは生きられない」と皮肉を言う大臣もいました。
嘉慶帝は20年間、朝議には出席しませんでした。その間、巌嵩と巌世蕃は政治の中心でした。
その間、巌嵩は世間から恨まれていました。とくに巌世蕃は傲慢で多くの財を集めました。多くの大臣が巌世蕃を弾劾しましたが、嘉慶帝が庇いました。
巌嵩 親子の最期
嘉靖31年(1552年)。嘉慶帝は「青詞が上手い」という理由で徐階(じょ・かい)を内閣大学士に採用。徐階は政治の提言もしっかり行っていました。
嘉靖帝は歳をとって衰えた巌嵩の作る青詞に満足できなくなり。徐々に巌嵩を遠ざけていきました。
嘉靖41年(1562年)。山東省出身の道士・藍道行は、占いの名人で燕京(北京)で有名でした。
徐階は嘉靖帝に藍道行を紹介しました。
ある日、占いをしていた藍道行は「今日は裏切り者がいるぞ」と言いました。するとそこに巌嵩が通りがかりました。
巌嵩は嘉靖帝の信頼を失いました。
すると重臣たちから弾劾を起こされて巌嵩は失脚。
嘉靖44年(1565年)。巌世蕃は反乱を起こそうとした罪で処刑されました。
巌嵩は財産を没収され、庶民に落とされ故郷にもどりました。
隆慶元年(1567年)。巌嵩は死亡しました。
物語では大物に描かれすぎ?
「明史」で酷評されて以降。様々な物語や京劇、その他の舞台では極悪政治家の代表みたいに描かれてきました。
巌嵩を倒した政敵によって誇張されている部分もあるようです。
明の組織は皇帝が絶対的な権力を持つので重臣が強い権力を持つのは難しいです。息子の巌世蕃は傲慢でしたが、巌嵩はまだ立場をわきまえていました。
巌嵩は物語にあるような権力を独占して財を独り占めする大物悪徳政治家というよりは。強いものには媚びて下のものからは賄賂を取る。明朝ではよくある政治家だったかもしれません。嘉靖帝に取り入る術を持っていたのが他の大臣との違いでしょう。
また、政治家としては評判のよくない人物ですが。文芸に優れていました。清朝時代の人々からは詩人としての才能は高く評価されています。
テレビドラマ
花様衛士 2019年、中国 演:李誠儒
ドラマの中ではすでに朝廷の最高位にいて政治を牛耳っている状態。敵キャラとして目立ってるのは息子の巌世蕃ですが。最後は悪事を暴かれて失脚。故郷に戻ります。
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