金尚魯(キム・サンロ)は、18世紀の朝鮮王朝の政治家。
特に英祖の治世では重要な役割を果たしました。
英祖が推進した蕩平策にも賛同、派閥争いを抑制する政策に協力しました。
しかし思悼世子との対立が激化。最終的には彼の処罰に積極的に関わりました。1762年に思悼世子の死後は失脚。晩年は清州に流罪となりました。
そのため金尚魯はドラマでは悪役として描かれます。
史実の金尚魯はどのような生涯をおくったのか紹介します。
金尚魯(キム・サンロ)の史実
プロフィール
名:尚魯(サンロ)
本貫:清風金氏
生年:1702年
没年:1766年
享年:65歳(数え歳)
日本では室町時代になります。
家族
父:金楺(キム・ユ) 左賛成
母:宋氏
兄:金取魯
兄:金若魯 左議政
妻:嘉林趙氏
子:
金致讓
金致永
金尚魯(キム・サンロ)の生涯
おいたち
1702年(肅宗28)。漢城(ソウル)で金尚魯(キム・サンロ)が誕生。
1721年(景宗1)。小科に合格して進士になり。
1734年(英祖10)。科挙文科に合格。
その後は礼文館や司憲府、司諫院などの役人を務めます。
暗行御史になって地方に行くこともありました。
1742年には江原道観察使になって飢饉に苦しむ民を救済するよう上訴。
都に戻ってからは成均館大士成·副提学、承旨を務めました。
承旨の時には武科試験に不正が多かったので、もっと厳格に実施するよう意見を提出。
その後、慶尚道観察使になって地方の苦しむ民を救うために活動しました。
1748年(英祖24)。兵曹判書に昇進。
その後も吏曹判書、戸曹判書を務めました。
このころ英祖が進めていた蕩平策の実施に賛成しました。
特定の派閥が強くなるのを防ぐため、偏った人事を行わない政策。それぞれの党派から交互に採用したり。派閥にとらわれることなく有能で王に忠誠を誓う者を採用しました。
思悼世子との対立
1749年(永祖25年)。思悼世子の代理聴政が始まりました。
少論との対立
しかし金尚魯たち老論と思悼世子は少論の処分をめぐっての意見が違いました。
このころ、老論と少論が対立していました。
李麟佐の乱を理由に少論の李光佐(イ・グァンジャ)の追放を要求。しかし思悼世子は拒否。すると金尚魯たち老論は思悼世子への不満を英祖に報告します。
1728年(英祖4年)。英祖の即位に反対する少論強行派と南人が起こした反乱。中心になったのは少論強硬派の李麟佐。反乱に参加した者の大半が少論だったので、その後は少論への風当たりが強くなりました。少論でも穏健派の李光佐はむしろ反乱に参加しないように呼びかけていました。
老論・外戚勢力と非外戚勢力の対立
やがて老論内部でも対立が起こります。
思悼世子に協力的な洪鳳漢(ホン・ボンハン)たち思悼世子の外戚勢力と、思悼世子を批判する金尚魯たち非外戚勢力が対立しました。
その間も金尚魯は右議政、左議政、領議政を務めました。
病んでいく思悼世子
英祖からの厳しい要求と、重臣たちの激しい派閥争いにさらされ続けた思悼世子はますます行動がおかしくなっていきました。
大妃の侍女に手を出したり(目上の人に仕える侍女に勝手に手を出してはいけない)、妻や侍女に暴力をふるったり、侍女を殺害したり。英祖に無断で都を離れて平壌に行ったり。
思悼世子のおかしな行動はエスカレート。
1762年。金尚魯は思悼世子の処罰を求める議論に積極的に参加しました。
老論の羅景彦が思悼世子の問題行動を並べ立て、謀反を起こしていると告発。英祖は謀反は本気にしませんでしたが。その他の問題行動を思悼世子が認めたこともあり。英祖と思悼世子の関係は悪化。
このとき金尚魯は洪啓禧(ホン・ゲヒ)、洪麟漢(ホン・インハン)とともに思悼世子を処罰するよう英祖に求めました。
思悼世子の生母の告発もあり。英祖は思悼世子から世子の地位を剥奪すると決定しました。
1762年(英祖38年)7月4日。思悼世子は米びつに閉じ込められその後、死亡しました。
金尚魯の最期
思悼世子がいなくなったことで、外戚勢力の力は低下。後継者は世孫となりました。しかし英祖は世孫を派閥争いの犠牲にしたくはなかったのでしょう。
まもなく金尚魯は「世子の指導を怠った・政丞としての役割を怠った」と弾劾を受けて、清州に流罪になってしまいます。
その後、釈放されましたが。二度と政治的な力を持つことはありませんでした。
1766年12月29日。死亡。
死後の扱い
1776年には正祖が即位。
正祖は英祖から「あなたの父を殺したのは金尚魯だ」と言われていたこともあり。
正祖は「金尚魯は英祖と思悼世子を仲違いさせて世子を殺すようにした」として金尚魯の官爵を剥奪。彼の4人の息子と兄弟の息子たちも、解任して配流しました。
その後、高宗の時に復権しました。
テレビドラマ
大王の道 1998年、MBC 演:パク・チョングァン
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