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権擥(クォン・ラム)蓄財熱心な首陽大君の側近

5 李氏朝鮮の重臣

クォン・ラムは首陽大君(世祖)の側近です。

首陽大君の側近というとハン・ミョンフェが有名です。ドラマではハン・ミョンフェやシン・スクチュの影にかくれてあまり目立ちません。

でも、早くから首陽大君と親しくなり、彼のために味方を増やしてクーデターを成功させた重要な人物でした。

世祖が即位した後は、重臣として権力と富を手にします。クォン・ラムは財産を溜め込むことでは当時から有名で、批判の的になっています。

史実の権擥(クォン・ラム)どんな人物だったのか紹介します。

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権擥(クォン・ラム)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1416年
没年月日:1465年2月6日

名前:権擥(クォン・ラム)
号:所閑堂(ソハンダン)
父:権踶(クォン・ジェ)
母:李氏
妻:

子供

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の7代世祖に仕えた重臣です。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

1416年。右賛成を勤めた権踶(クォン・ジェ)の次男として生まれました。

幼い頃から読書好きで頭のよい子供でした。

父の権踶(クォン・ジェ)は妾を溺愛して正妻である母の李氏には冷たくしていました。父の機嫌を損ねた姉が蹴り殺されたこともありました。あまりにもひどいのでクォン・ラムが泣きながら父に抗議しましたが、逆に父に暴力を振るわれました。

結局、家にいることが耐えられなくなって家出してしまいます。

家出したクォン・ラムは儒学者の柳泰齋の弟子になりました。このころ韓明澮(ハン・ミョンフェ)と出会い友人になります。申叔舟(シン・スクチュ)とも知り合います。

クオン・ラムはハン・ミョンフェと机を並べ共に勉学に励み、将来を語り合ったといいます。

成人した彼は所閑堂(ソハンダン)と名乗ります。

しかしなかなか科挙には合格できませんでした。

1450年。35歳のとき科挙に合格。首席でした。
司憲府の役人(従六品)になりました。

1451年。集賢殿校理(正五品)になりました。

首陽大君と一緒に「歴代兵要」という書物の編纂に関わります。古代から李氏朝鮮初期までの戦や戦い方について記録した書物です。

一緒に仕事している間に首陽大君と意気投合して側近になりました。楊汀、洪達孫などを説得して首陽大君の味方にしました。

このころハン・ミョンフェもなかなか科挙に合格できませんでしたが、交流は続いていました。

1552年。文宗が死去。12歳の幼い王(端宗)が誕生しました。

金宗瑞(キム・ジョンソ)、皇甫仁(ファンボ・イン)ら一部の重臣が権力を握り、王のかわりに政治を行っていると批判します。

重臣たちが力をもっていることに王族たちも不満を持っていることを知り。重臣たちを排除することを考え始めます。親しい首陽大君を尋ね、決起を訴えました。

申叔舟(シン・スクチュ)、鄭麟趾(チョン・インジ)を説得して首陽大君の味方にしました。

安平大君がキム・ジョンソの味方になると、ハン・ミョンフェたちとともに決起の計画を考えます。

揚程などとも会い多くの武官を味方にして、首陽大君のために働く兵士を育てました。

キム・ジョンソの警戒をとくため、首陽大君が明へ使者として向かいます。

首陽大君が帰国すると、ハン・ミョンヘたちとともに決起で殺害する人物のリストを作成しました。

癸酉靖難(ケユジョンナン)

1453年11月8日。ついに首陽大君が決起します。

クォン・ラムは崔恒(チェ・ハン)と共にキム・ジョンソの家を訪問しました。キム・ジョンソは首陽大君がクーデターを起こすことを知らずに無防備でした。クォン・ラムは首陽大君が会いに来たことを伝え、キム・ジョンソを屋敷から誘い出すことに成功します。門の前で待機していた首陽大君がキム・ジョンソ手紙を渡すと、それを合図に一斉に襲いかかりました。

キム・ジョンソとその家族を殺害しました。別の部隊がファンボ・インら重臣の殺害に成功。首陽大君のクーデターを成功しました。この事件を癸酉靖難(ケユジョンナン)といいます。

このあと、クォン・ラムは功績が認められ「靖難功臣」の扱いをうけます。

承政院同副承旨(三品)になりました。

1455年6月。端宗に譲位させ、首陽大君が即位しました。世祖の誕生です。
吏曹參判になりました。

明に世祖の即位を知らせるため使者となりました。世祖が即位することを明に認めさせます。

1556年。成三問らが端宗の復位を目指して反乱を起こそうとする事件が発生しました。この事件で処刑された金文基(キム・ムンギ)の息子の妻クォン・ヨウングムを引き取り奴婢にしました。ヨウングムはクォン・ラムと同じ一族でした。

死六臣とその関係者が持っていた土地を譲り受けます。

端宗の側室・淑儀権氏もクォン・ラムの一族でした。淑儀権氏の父が端宗の復位計画に関わり処分され実家が没落。権氏の土地と奴婢はクォン・ラムのものになりました。権氏は1460年になって放免されますが、クォン・ラムは権氏の土地や奴婢は返しませんでした。

クォン・ラムは父が所有していた土地に加えて、世祖のために働き功績をあげたため、処分した者から取り上げた土地を多くあたえられました。そのため、当時としては有力な大金持ちになりました。そのため世間から批判を浴びましたが、世祖からは信頼されていました。

クォン・ラムは横暴になって財産を溜め込むことに熱心でした。そのため何度も弾劾を受けました。それでも世祖の信頼は変わりません。

1459年。右議政(正一品)になりました。

1462年。左議政(正一品)になりました。
このときの領議政は申叔舟(シン・スクチュ)、右議政は韓明澮(ハン・ミョンフェ)でした。首陽大君の側近が要職を独占しました。

1463年。病気になり左議政を辞任しました。

引退後、屋敷を建てましたがあまりにも豪華すぎる屋敷だったので批判の的になりました。彼の家の奴婢も身分に不相応な贅沢な暮らしをしていたので批判されます。それでもクォン・ラムは罪には問われませんでした。

1465年。闘病生活の末、死亡しました。享年49。

占いを信じる

クオン・ラムは儒学者だったので表向きは占いは否定していました。

しかし私生活では占いを信じていました。儒教の教えでは占いや呪術は信じてはいけません。しかし世祖の側近ということで処罰はされませんでした。世祖自身も仏教にのめり込んでいましたから寛容だったようです。

南怡(ナム・イ)を娘婿にしようとしたとき、占い師にうらなってもらったことがありました。占いでは南怡は逆賊になるという結果になったので破談にしようとしました。ところが、クォン・ラムの死後ということだったので予定通り婿にしました。

占いどおりクォン・ラムの死後。8代睿宗の時代にナム・イは逆賊にされてしまいます。

 

まとめ

小さなことにこだわらない、もの静かで口数が少ない人物だったといいます。

首陽大君の死後。対立していた士林派が政治を動かす時代になると、クォン・ラムたち首陽大君の側近は批判の対象になりました。クォン・ラムも批判されましたが、ハン・ミョンフェやシン・スクチュに比べると批判は少なかったようです。

テレビドラマ

雪中梅 1984年 MBC  演:パク・イル
ハンミョンフェ 1994 KBS 演:キム・ギソプ
王と妃 1998年  KBS 演:キム・ガプス
王女の男 2011年 KBS 演:イ・デヨン
インス大妃 JTBC 2011 演:キム・ヨンヒ

 

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