敬寧君(キョンニョングン)は朝鮮の王子。3代国王 太宗の庶長子として生まれました。出生時の出来事が外戚粛清の理由として利用されたました。王位争いには関わらず外交や王族としての役割を果たしながら静かな生涯を送りました。
この記事では、敬寧君の生い立ちや家族関係、出生時の事件が政治に利用された理由、そして王子としての役割と最期までをわかりやすく紹介します。
この記事で分かること
- 敬寧君が王位継承の対象とならなかった理由
- 出生時の出来事が政治問題として扱われた理由
- 王子として果たした外交的な役割
- 晩年の扱いと王族として迎えた最期
敬寧君(キョンニョングン)とはどんな人?
敬寧君(キョンニョングン/けいねいくん)は、朝鮮王朝第3代王・太宗の息子の一人です。王子ですが庶子のため王位を継ぐ立場に置かれた人物ではありません。
基本プロフィール
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名前:敬寧君(けいねいくん)
(韓国式読み:キョンニョングン) -
諱(いみな):李裶(り・はい)
(韓国式読み:イ・ビ) -
生年:
太祖4年(1395年)陰暦12月13日
※西暦換算では 1396年1月23日 -
没年:1458年(世祖4年9月9日)
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父:太宗 李芳遠
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正妻:清原府夫人・清風金氏
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子ども:10男2女
敬寧君は太宗の息子の中では年長の部類に入りますが母が正室(王妃)ではなかったので王位を継ぐ立場にはありませんでした。
家系図

敬寧君の家系図
敬寧君の家族・人間関係
父:太宗
敬寧君の父は朝鮮王朝第3代王・太宗 李芳遠です。
兄弟間の争いを勝ち抜いて王になり、強い王権を築いた人物。在位中は外戚(王妃の親族)を警戒していました。
母:孝嬪金氏
敬寧君の母は太宗の側室・孝嬪金氏です。もともと太宗の王妃の実家 閔家の家婢でした。
太宗が王になる前に敬寧君が誕生しているので李芳遠は妻の実家の侍女に手を出したことになります。
太宗即位後は側室となりました。正室ではなかったため、その子の敬寧君も「庶子」になります。
正室(王妃):元敬王后
元敬王后は太宗の正室で世子や世宗を産んだ王妃です。敬寧君にとっては父の正妻・嫡母にあたる人物になります。
王妃の弟たち:閔無恤・閔無悔
閔無恤・閔無悔は元敬王后の弟です。太宗にとっては外戚で、一定の影響力を持っていました。
敬寧君がまだ母のお腹にいたとき、母が閔家の者たちから粗末な扱いをうけ。敬寧君は過酷な環境で誕生したといいます。この閔家から受けた扱いが約20年後に閔兄弟を追及する理由の一つになります。
世宗との関係
敬寧君と世子(譲寧大君)と世宗は父が同じ異母兄弟です。
敬寧君は1396年生まれ、世宗は1397年生まれ。敬寧君は世宗より年上です。異母兄弟との仲がどうだったのかは記録にありません。
庶長子という立場と王位争いとの関わりについて
敬寧君は太宗の庶子の中では最年長者。そのため「庶長子」と呼ばれています。
朝鮮王朝では王位継承では正室の子(嫡子)が最優先でした。側室の子(庶子)は後継候補になりにくいです。
年齢だけを見れば有力に見えても王位継承争いの候補として扱われた記録は確認できません。
実際に太宗晩年の後継問題では、世子だった譲寧大君とその後に世子となった忠寧大君(のちの世宗)この二人を中心に後継者問題が争われ、敬寧君の名前が後継候補として挙がることはありませんでした。
生年についての諸説
生年は『朝鮮王朝実録』では「壬午(1402)年に生まれた」と書かれています。でも全州李氏の敬寧君派の族譜では出生は1396年になっています。
『朝鮮王朝実録・太宗実録』によると1395~1396年にかけて母・金氏と赤子の敬寧君とは閔家から危害を受けそうになったと書かれています。もし敬寧君が1402年生まれだったとすると、このときには生まれてないことになってしまいます。
そのためこの記事でも族譜と同じ新暦1396年1月23日生まれ説を採用します。
出生時に何が起きたのか
敬寧君は誕生時から事件に巻き込まれました。
敬寧君は父の李芳遠がまだ王になる前、太祖4年の冬に生まれています。
母は閔家の婢女・金氏(後の孝嬪金氏)でした。
この出産の過程が普通ではなかったのです。
『朝鮮王朝実録・太宗実録』によると、
金氏は妊娠が分かると閔家の屋敷の外に出され、
出産が近づいても十分な保護を受けられない場所に置かれました。出産当日も建物の外へ移され、寒さで命を落としてもおかしくない状況でした。
その中で辰時(午前7時から9時ごろ)に生まれたのが李裶(敬寧君)です。母子ともに生き延びましたが、史料では「生き残れたのは幸運だった」と書かれています。
この話は後世の噂ではなく、太宗の命令によって公式記録に残されたことです。
太宗 は太宗15年(1415年)にこの出来事について「後の世の戒めとして、史冊に詳しく書け」と命じたのです。
敬寧君は誕生したときから王室で問題になる出来事でした。
この出来事がミン兄弟粛清に繋がるわけ
でも、ここでおかしな点があります。
これは不自然に感じるところです。
なぜ20年後に持ち出されたのか
敬寧君誕生から20年後に太宗がこの問題を取り上げた理由は『朝鮮王朝実録』に書いてます。
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当時は詳しい事情を知らなかった
-
年を経てから事実を知り、改めて問題だと感じた
と説明しています。
これだけを見ると、
「なるほど、後から分かったのか」と思うかも知れません。
太宗が閔兄弟粛清の口実として利用した?
でも、この時期の太宗は王妃・元敬王后の実家 閔(ミン)氏一族を段階的に排除していた時期でした。
すでに何人もの親族が処罰され、残っていた有力者が王后の弟の閔無恤・閔無悔だったのです。
そこで閔無恤・閔無悔粛清のため使われた理由の一つが、
「敬寧君の出生時に、母子を危険な目に遭わせたこと」といえます。
太宗はこの出来事を含めて、
-
王室の秩序を乱した
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王族の命を危うくした
という理由で問題を取り上げて閔兄弟を義禁府で取り調べるよう命じました。
結果として閔無恤・閔無悔は翌年に賜死しています。
敬寧君は訴えていない
でもこのとき敬寧君本人がこの追及を求めたわけではありません。
敬寧君は王位争いに関わった人物でも外戚排除を主導した人物でもありません。
あくまで、
ということなのです。
敬寧君母子への過酷な扱いが本当にあったのかはわかりません。誇張して伝わった可能性もあります。でもその出来事を知った時に、それを「いつ」「どう使うか」は太宗の政治な判断です。
王子としての活動・明の永楽帝に遇された王子
敬寧君は王位争いには直接関わりませんでしたが。王子としての役目はきちんと果たしていました。
明への使節として派遣される
世宗1年(1419年)、敬寧君は朝鮮を代表して明へ感謝の意を伝える謝恩使として派遣されています。
このとき明の皇帝だったのが永楽帝です。
永楽帝からの待遇
敬寧君は明の宮廷で朝鮮の王族としての丁重な扱いを受けています。史料には永楽帝から次のような下賜品が贈られたと書かれています。
- 儒学の重要書(四書・五経・性理関係の書)
- 金や銀
- 絹馬や羊
このことから分かるのは少なくとも外交的には王族として認められた存在だったということです。冷遇されていたわけではありません。
問題行動と処分・一點紅事件
敬寧君は王子として一定の役割を果たしていましたが、私生活では問題が指摘されたこともあります。
何が問題になったのか
世宗の治世初期。敬寧君は父・太宗の正室 元敬王后の服喪期間中に妓生の一點紅(いってんこう)と関係を持ったとされました。
元敬王后は敬寧君の母ではありませんが。王の母ですから「自分は関係ない」ではすまされません。
とくに王族にとって喪中の行動はとくに厳しく見られます。そのため大臣たちは「礼を失している」として敬寧君を批判しました。
処分はどうなった?
この件については投獄などの重い刑罰は受けていません。実際の処分は出入りの制限や俸禄停止といった比較的軽いものでした。
この出来事から分かること
このことから敬寧君は優等生的な王子だったわけではない事がわかります。だからといって王族として完全に切り捨てられる立場でもありませんでした。
王族としての役割を果たしつつ、時には羽目も外すこともある普通の王子だったといえます。
敬寧君の最後と死因は?
敬寧君の晩年と最期
敬寧君はその後も特に問題を起こすことなくひとりの王族として暮らしていました。
敬寧君が確認できる最後の公的な行動は1458年(世祖4年)8月に宮中で行われた正式な宴への出席です。この時点で処罰や幽閉といった扱いを受けていた形跡はなく、王族の一人として行事に参加していました。
その約1か月後、1458年旧暦9月9日に敬寧君は忠州で亡くなりました。
死亡地と日付は史料で確認できますが、死因についての具体的な記録は残っていません。
病気だったのか、急な体調悪化だったのかも分かりません。
敬寧君の死を受け世祖は、
- 朝廷の政務を3日間停止
- 市場も3日間閉鎖
- 米や布などの賻儀を下賜
といった対応をして王族として正式な弔いを行いました。敬寧君は最後まで王族として扱われていたことが分かります。
敬寧君の墓
敬寧君は現在の忠清北道・忠州市にある黄金沙と呼ばれる場所に葬られました。
墓の前には位牌を祀る祠も設けられ、死後も王族としての位置づけが保たれていました。

敬寧君の墓
Jajaigi, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
出生時には過酷な扱いを受け、その出来事が外戚粛清の理由の一部として使われた王子ですが。本人は特に大きな問題を起こすこともなく、王族としての役目を全う。最期は王族として一定の敬意をもって弔われました。
妻と子ども
妻について
敬寧君の正妻は、清原府夫人・清風金氏です。1416年に結婚しました。清風金氏は亡くなったらしく、後妻(継室)が2人います。正妻とその子をここに紹介します。
- 正室・清原府夫人・清風金氏
- 長男 高陽君李吉
- 次男 銀川君 李穳
- 三男 梧城君 李禾+致
- 四男 永善都正 李利
- 継室・郡夫人・開城馬氏
- 五男 穆陽君李直
- 継室・郡夫人・全州崔氏
- 六男 丹山都正 李穗
の存在が記録されています。生没年や詳しい人物像は不明です。側室も何人かいたようですが詳しいことは分かっていません。
子どもたち
敬寧君には息子10人・娘2人(計12人)の子どもがいました。なかなかの子沢山です。ただし特に政治的な活動や、目立つような行いは記録されていません。
「◯◯君」といった王族としての爵位を与えられ、地方で家を継いでいきました。娘2人も重臣や地方官の家に嫁いだことが分かっている程度で特に詳しいことは分かっていません。
ドラマの敬寧君
龍の涙 KBS、1996~1998年 演:カン・ソンミン)
大王世宗 KBS、2008年 演:ユン・ヨンジュン、子役:ノ・ヨンハク
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