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完豊君・李湛 は 洪国栄に人生をふりまわされた正祖の甥

3 李氏朝鮮の王子

 

完豊君(ワンプングン) 李湛(イ・チュン)は李氏朝鮮の王族。

李湛は荘献世子(思悼世子)の孫。

正祖の弟の息子。
つまり甥です。

洪国栄(ホン・グギョン)の希望で元嬪·洪氏の養子になりました。

洪国栄は完豊君を王位後継者にしようとしました。

そのことが原因で洪国栄の失脚を招いてしまい完豊君も命を奪われてしまいます。

史実の完豊君 李湛はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李湛の史実

いつの時代の人?

生年月日:1769年1月21日 
没年月日:1786年11月20日

姓:李(イ)
名:湛(チュン)、別名:湜
称号:完豊君 → 常溪君
父:恩彦君
母:常山郡夫人 宋氏
妻:平山郡夫人 申氏

子供

彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の22代英祖~23代正祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

李湛は1769年に生まれました。

父の恩彦君は荘献世子(思悼世子)の三男。正祖の異母弟。

母は正妻の常山郡夫人宋氏

李湛は恩彦君の長男です。正祖の甥になります。

李湛が生まれたのは英祖が国王だった時代です。王の孫ならある程度成長すれば何かの爵位や品階が与えられるものです。ところが英祖の治世には李湛には称号は与えられませんでした。

元嬪·洪氏の養子になる

時期は不明ですが。洪国栄(ホン・グギョン)から李湛を 元嬪·洪氏の養子にしたいという話がありました。

父の恩彦君は最初は断りました。でも洪国栄が何度も説得したのでついに恩彦君は養子の件を認めました。

洪国栄がなぜ李湛を養子に選んだのかは不明です。

正祖3年(1779年)5月7日。11歳のとき。従二品の品階と「昭義大夫」の役職に任命されました。そして「完豊君」の称号が与えれました。

「完豊」の称号を考えたのは洪国栄。李氏王家の本貫「完山」(現在の全羅北道全州市完山)と洪氏の本貫の「豊山」からつけたといわれます。

 

正祖3年(1779年)5月7日。 元嬪·洪氏が病死。12歳11ヶ月の若さでした。

元嬪·洪氏が死亡した日付と、完豊君の称号が与えられたのが同じ日付になっているわけです。

元嬪·洪氏の生前から養子には決まっていた。
という説と。
元嬪·洪氏の死後に養子になったという説があります。

元嬪·洪氏の死亡当日。完豊君は正祖から殯殿·守賓官に任命されました。守墓官に内定しました。

彼は元嬪·洪氏の喪中に殯殿·守賓官として参加。
喪があけた6月2日、守墓官に任命されました。

 元嬪·洪氏の養子になった完豊君を洪国栄は完豊君を「完豊君は私の甥だ」と言っていました。

ところが完豊君と洪国栄は気が合わず二人の関係は良くなかったといいます。

完豊君は世子にはならなかったものの、事実上の世子と同じ扱いをうけ、仮「東宮」「仮世子」と呼ばれていたといいます。

国王の後継者にされそうになる

元嬪·洪氏の死後1ヶ月が経った6月18日。吏曹参判の宋徳相が「殿下は壮年であるにもかかわらず、まだ王子が生まれておりません。もちろんこれからお生まれにかることはあるでしょうが、跡継ぎを広く求める必要があると存じます」という上書をあげました。

洪国栄が出させたといわれます。

実子がいない段階で「跡継ぎを広く求める」というのは養子を迎えろという意味です。元嬪·洪氏には養子の完豊君がいますから、完豊君を正祖の跡継ぎにしろ。と言ってるのと同じです。

ところが正祖はまだ28歳。孝懿王后金氏のほかにも他の側室もいます。まだ子供が産まれる可能性はあります。それにもかかわらず養子を迎えろというのは急ぎすぎているように思えました。

それまで正祖は洪国栄を信頼して様々な権限をあたえていました。しかしさすがに跡継ぎ問題にまで口をだす洪国栄を疑い始めました。

重臣たちは「国王が洪国栄を疑っている」と知って洪国栄を弾劾しました。

正祖3年(1779年)旧暦9月26日。洪国栄は辞職しました。弾劾をうけて処分される前に自ら引退しようというのです。重臣たちは反対しましたが、正祖は洪国栄の引退を認めました。

洪国栄を批判する重臣たちは当然、完豊君にも批判の矛先を向けます。

正祖は完豊君をかばいました。

完豊君から常溪君へ

1780年(正祖4)8月15日。「完豊君」という称号が仁祖の即位に貢献した功臣に与えられた称号「完豊郡」と被る。という理由で「常溪君」に変更になりました。名前も「李湛」に変えられました。

正祖は名前と称号を変えることでなんとか完豊君への追求を止めさせようとしました。

 

常溪君の急死

1786年(正祖10)。正祖は常溪君の婚礼相手を探しました。

婚礼をあげた直後の11月10日。毒薬を飲んで死亡しました。

常溪君が死亡した原因は自殺説と他殺説があります。

母方の祖父・宋楽休によると「死亡直前まで元気だった」と証言しています。結局、死亡の真相はうやむやになりました。

婚礼をとりしきった金宇鎮は常溪君の死後。常溪君と内通しているという理由で島流しになりました。重臣たちは他にも常溪君に関わった者たちを次々に弾劾をお越し処分していきました。

葬儀は正祖の命令で王族にふさわしい格式で行われました。

12月1日。貞純王后が意見書を発表。「常溪君と洪国栄を逆賊」と名指して批判、彼らの処分を要求しました。

正祖も大妃の意見には逆らえず、すでに死亡している常溪君の称号を廃止しました。父の恩彦郡一家は島流しになりました。洪国栄も死罪になっています。

テレビドラマ

イサン 2007年 MBC 演:チェ・ウォンホン

 

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