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孝寧大君・世宗の兄は仏教マニア

3 李氏朝鮮の王子

 

孝寧大君は太宗の次男。世宗の兄です。

王位争いには加わらず、政治的活動もしていないので歴史上はほ無名です。

しかし仏教に関心を持ち、生涯を通じて仏教の保護活動を行いました。朝鮮の仏教界では重要な人物でした。自ら経典を翻訳したり寺院建立に関わりました。

史実の孝寧大君はどんな人物だったのか紹介します。

 

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孝寧大君の史実

いつの時代の人?

生年月日:1396年 1月6日
没年月日:1486年 6月12日

名前:李補(イ・ポ)
称号:孝寧大君(ヒョリョンテグン、こうねいたいくん)
法名:蓮江
雅号:蓮江
父:太宗
母:敬王后閔氏
妻:蘂城府夫人
側室:平海孫氏

子供:七男三女

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の3代太宗の次男。4代世宗の兄。9代成宗の時代まで生きました。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

1396年。靖安君(李芳遠・後の太宗)の次男として生まれました。

母は閔氏(後の元敬王后)

子供のころから読書が好きでした。30歳までには書道の名人と言われるようになります。弓術も得意でした。親孝行で父親から可愛がられたといいます。

1400年。父の李芳遠が国王(太宗)に即位。

1407年。12歳のとき鄭易の娘・蘂城府夫人と結婚しました。

1412年。17歳のとき孝寧大君(ヒョリョンテグン)の称号を与えられました。

仏教に興味を持ち研究を始めます。

1417年。蓮江という法名を名乗ります。蓮江は孝寧大君が雅号(儒学者たち文化人が使うペンネーム)として使っていたものです。

このころ太宗は、譲寧大君から世子の座を取り上げ忠寧大君を新しい世子にしようとしていました。重臣たちの意見もほぼ忠寧大君でまとまりつつありました。このような時期に出家したのは、このような争いに巻き込まれたくないとの思いが会ったのかもしれません。

1418年。父・太宗が弟・忠寧大君(チュンニョンデグン、世宗)に譲位しました。

1422年。父・太宗が死去。

1464年。円覚寺を建立。

1486年(成宗17)。死去しました。(享年90歳)

仏教を保護

円覚経・般若心経・法華経・楞厳経・禪宗永嘉集を翻訳しました。

世宗の時代は儒教が重視され、仏教は弾圧を受けました。

しかし若いころから仏教に興味を持っていた孝寧大君は積極的に仏教活動に取り組みます。

崇儒抑仏政策が進む中で仏教の保護活動を行います。仏教の教えと儒教が反するものではないと考え、孝寧大君は「儒佛心法同一原」の理想を追求しました。

多くの寺院を巡り人々に教えを広めました。

 

兄弟との関係

政治的なことには関わらなかったこともあり。弟の世宗との仲は悪くはなかったようです。

朝鮮中期の文臣、金時敏(キム·シミン、1681〜1747)が編集した書物にはこのような逸話が載っています。は世宗が太平館で明の使者を迎えて宴を開いていました。このとき孝寧大君が世宗に酒を勧めると、世宗は起立して酒を継いでもらいました。この姿を見て使者は感心したといいます。

世宗の死後、兄の譲寧大君は首陽大君などを支援して政治と関わり、一族の中でも大きな影響力を持ちました。それに対して孝寧大君は仏教活動に専念しました。

子孫には仁順王后沈氏(13代国王明宗の王妃)、西人派の初代党首になった沈義謙、沈忠謙などがいます。

テレビドラマ

王と妃 KBS、1998年、演:キム・インテ
大王世宗 KBS、2008年、演:ユ・テウン

 

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