密豊君(イ・タン)は李麟佐の反乱で担がれ処刑された

密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)は昭顕世子の子孫です。

粛宗の時代には外交使節になって朝廷のために働いていました。しかし英祖の時代になって、少論派の李麟佐(イ・インジャ)が反乱を起こします。密豊君は李麟佐たちに担がれてしまいました。しかし反乱は鎮圧され、密豊君は自決に追い込まれます。

史実の密豊君はどんな人物だったのか紹介します。

密豊君(イ・タン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日

名前:李坦(イ・タン)
称号:密豊君(ミルプングン)
父:臨昌君
母:凝川郡夫人咸陽朴氏
妻:郡夫人淸風金氏

子供
長男:觀錫
次男:商原君、粛宗の息子・延齡君(イ・フォン)の養子になったものの、父が李麟佐の乱に参加したため処刑されました。
三男:恒錫
四男:謙錫
五男:益錫

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に19代粛宗~21代英祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち 

1698年(粛宗24年)に生まれました。
父は臨昌君。昭顕世子の孫です。
つまり、密豊君は昭顕世子のひ孫になります。

昭顕世子は16代国王・仁祖の長男でした。清で人質生活をおくったあと朝鮮に戻りましたが帰国直後に死亡しています。昭顕世子の死には謎が多く暗殺説もあります。

昭顕世子には息子が三人いました。すべて流罪になり三男の慶安君だけが生き残りました。慶安君は18代国王・顕宗の時代に許されて王族として暮らしました。

密豊君李坦(イ・タン)は昭顕世子の子孫になります。

外交使節になって何度か清に行っています。

1723年(景宗3年)。密豊君は謝恩使になって清に行きました。

1726年(英祖2年)。謝恩兼冬至使になって清に行きました。

清に使節として行くなど役人として働いていました。

反乱に担ぎ出された孫の密豊君(イ・タン)

1728年(英祖4年)。英祖に不満を持つ少論派たちが反乱を起こしました。首謀者は少論派の中でもとくに過激な李麟佐(イ・インジャ)です。

李麟佐は英祖は粛宗の息子ではない。景宗を暗殺した。などと言って英祖が正統な王ではないと主張しました。そして密豊君を担ぎ出して王にしようとしたのです。

密豊君は昭顕世子の子孫。粛宗の時代には過去に不当な扱いをうけた王族の名誉回復がされた時機でした。昭顕世子の子孫は由緒正しい王族と思われていたのです。

しかし李麟佐の乱は鎮圧され、乱に加わった密豊君は自決しました。密豊君は謀反者になってしまいます。

謀反者になった密豊君の息子も処刑されました。こうして細々と続いていた昭顕世子の家系は途絶えてしまいます。

1864年。(高宗1年)。名誉が回復しました。

TVドラマ

テバク SBS、2016年 演:ソ・ドンウォン
ヘチ SBS、2019年 演:チョン・ムンソン


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